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ブランコ坊やを初めて見たのは、今から十五年前のことだ。
当時三十歳だった私は、勤める造園土木会社の上司にお値打ちの土地を勧められたのをきっかけとして、俄かに様々な条件がトントン拍子で整い、時の勢いに背中を押されながら、アレヨアレヨと立ち回っているうちに、気が付いたらマイホームを購入していた。
勿論、上司に無理矢理買わされた家ではない。人生における最大級の買い物だ、妻と再三にわたる入念な家族会議の末、最後は全て納得の上で私が契約書に印鑑を押した。
でも、そんな大きな買い物をしたわりに、どこか他人事のようでもあった。実際のところ、私のような小心者が、三十五年に渡る膨大なローンを組むという現実を真正面から捉えていたら、毎晩高熱にうなされて寝込み続けるほどのプレッシャーに苛まれるのは当然の帰結。恐らく氷嚢がいくつあっても追いつかないであろう。そんな事態にならぬように、心が何かしらの防衛本能を働かせているのかもしれない。マイホームに住んで十五年が経過したが、未だに他所様の家を間借りしているような、妙な感覚を否めずにいる。
「パパ、公園に行きたい! 公園に連れて行って!」
それまで住んでいた賃貸マンションからマイホームへ引っ越しをして、半年ほど経ったある日曜日。私は、当時まだ五歳だった一人息子のアキラを連れて朝の公園を散歩に出掛けた。おはよう。おはよう。雲ひとつない空の下、クスノキ、カシノキ、サルスベリ、園内の樹々たちが枝や葉を擦り合わせて互いに朝の挨拶を交わしている。
おはよう。私も樹々の葉擦れに割り込むように、胸のなかでひっそりと挨拶をする。緑から発せられる心地よい空気が頬を撫でる。私は嬉しい。何が嬉しいって、息子がこの公園をとても気に入っていることが、とても嬉しい。それから、普段は私に対して素っ気ない態度ばかりの妻が、三十歳という若さで目の前に公園のある戸建て住宅を購入した私の功績を褒めてくれたことが、何よりも嬉しい。
「あ、ブランコ坊やだ!」
手を繋いで歩道を歩いていた息子が、公園の遊具が点在するエリアを指差す。指し示す方へ視線を送ると、見たところ小学校三・四年生といった感じの男の子が、ブランコの座板に立って一人でブランコを漕いでいる。
「ブランコ坊や?」
「うん。近所のお友達が、みんなそう呼んでいるよ」
「あの子は、どこの子? いくつ?」
「家は知らない。歳は、えーと、たしか、十歳とか、それぐらいって聞いたよ。あの子は、一日中あのブランコに乗って、ずっとずっと遊んでいる。だからブランコ坊や。ねえパパ、僕もブランコで遊びたいな」
息子のリクエストで、ブランコで遊ぶことにした。幼児用ブランコに息子を乗せて、後ろから優しく揺らす。その横でブランコ坊やは、体が空と水平になるほどの勢いでブランコを漕ぎまくっている。
ブランコ坊やの風体は、ぶかぶかのラスタカラーのトレーナーに、黒い半ズボン、つるつるの坊主刈りで、眉毛が濃く、頬骨が高く突き出ている。間近で見て分かったのだが、身長は一六五センチを優に超えていて、小柄な私より既に背が高い。異常に長い手足は、筋肉で固く締まっている。
「あの子とお話をしたことはあるかい」
私はブランコを揺らしながら、息子にこっそりと質問をした。
「ないよ。ブランコ坊やは、何もしゃべらない。あの子の声を聞いた友達はいない」
「あの子に意地悪とか悪戯をされたことはないかい」
「ないない。ブランコ坊やは、いつもブランコに乗っているだけ」
ブランコ坊やのブランコが揺れる度に、激しい金属音がする。おや、息子のブランコからも、ギシギシと鉄の擦れる音がする。塗装の上塗りで誤魔化してはいるが、この遊具はそれなりに老朽化が進んでいるのだ。
昨今は、古い遊具や危険な遊具は、速やかに撤去される。子供を危険に晒さない為の市の取り組みだ。それが地元の子供にいかに人気の遊具であってもやむを得ない。このブランコが撤去される日も、そう遠くはないだろう。造園土木に携わる職業柄、そこら辺のことは手に取るように分かる。
「このブランコは、壊れそうだ。危ないよ。降りようか」
私は、息子に注意を促した。
「嫌だ! 僕、このブランコで遊びたい!」
息子が、激しく駄々をこねる。
「遊ばないほうがいい。このブランコはボロボロなの。危険なの。そうだ、あっちの滑り台で遊ぼうか」
「嫌だ! 嫌だ! このブランコで遊びたい!」
「わがままを言わないでおくれ。そうだ、パパの言うことを聞いてくれたら、犬を飼うことを真剣に考えてあげよう。ほら、アキラ、以前からフレンチブルドックが飼いたいって熱心にママにお願いしていたよね。今すぐこのブランコを降りてくれたら、犬の件については、パパからもママに相談してあげてもいい」
「嫌だ! 絶対に嫌だ! パパずるいよ。犬を飼いたいという僕の気持ちを人質にするなんて。そんなやり方で僕をこのブランコから降ろして、パパはそれで本当に満足なの? パパは、そんな理由で飼われた犬が幸せになれると真剣に思っているの?」
息子は、保育園児ながら、大人が気おくれするようなウィットに富んだことを、しばしば言うようになった。
「パパを困らせないでおくれ。ママに言いつけちゃうよ。そうしたら、アキラはママに怒られるね。ママに怒られたら、アキラはきっと泣いちゃうね」
その刹那、不吉な気配。いわゆる殺気ってやつ。反射的に気配のするほうを見ると、先程までブランコを漕ぎまくっていたブランコ坊やが、停止したブランコの板の上に座り、右手の指でピストルの形を作り、左手をその指のピストルに添え、私を狙い撃ちする仕草をしている。
「……き、き、君、な、な、なんなのさ? おじさんに何か用?」
返事はない。ただ指で作ったピストルで、私という標的を無表情で狙い続けている。いやマジで怖いんですけど。やめてよもう。軽いパニックに陥った私は、うろたえながらもぎりぎりのところで平然を装い、はいはい、揺らせばよいのでござんしょう、とかなんとか言いつつ、ブランコ坊やが指のピストルを下げてくれるまで、震える手で息子の幼児用ブランコを後ろから揺らし続けたのである。
それからというもの、休日の散歩途中や会社からの帰宅途中に、公園のブランコを意識して見るようになった。この時期の私は息子と公園で遊ぶことが多く、現在のような自動車通勤ではなく、最寄りの駅から電車で通勤していたので、駅と自宅との道すがら、ブランコ坊やを頻繁に目撃した。
そして、その度にブランコ坊やは、私の存在に気が付くや否や、必ずブランコを停め、いつも指で作ったピストルで私を狙い撃ちする仕草をするのだ。勘弁してちょうだい。私が何をしたというのだ。息子を危険なブランコから降ろそうとしただけじゃないの。君の愛するブランコを、ボロだと侮辱したことを怒っているのか?
だけどさあ、事実上ボロなのだからしょうがないでしょう? まあ、それ以上の攻撃をこちらに仕掛けてくるようなことはないのであるが、それにしたってあたふたせずにはいられない。いつしか私は、公園の植栽の陰に隠れてこっそりとブランコ坊やを覗き見るという、妙な毎日を送る羽目になってしまった。ただし、息子と公園で遊んでいる時は、息子の手前、たかが小学生にビビってこそこそと身を隠すような情けない真似は出来ないので、歯を食い縛って動揺を隠しているといった具合だ。