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我が家の目の前には、近所の子供たちが野球をするにはやや狭い、フットサル程度であれば十分楽しめる、そんな広さの公園がある。この町に古くからある公園なのであろう、中央には歴史を感じさせる巨大なケヤキが枝を扇状に広げて鬱蒼と鎮座している。
五時五十五分に目が覚める。毎朝六時に設定をしているスマホのアラームを解除しかけて、あ、今日は休日だから目覚ましの設定はしていないのだ、と気が付く。
窓から差し込むレースのカーテン越しにも分かる快晴。ベッドから出ると、おや、妻が仕事の資料を取り散らかしたまま机に突っ伏して眠っている。ノートパソコンも開いたままだ。また執筆をしながら眠ってしまったのだろう。いつものこと。いつもの我が家。いつもの朝。私と違い典型的な夜型人間の妻は、早朝に不意に目が覚めるとすこぶる機嫌が悪い。私は妻を起こさないよう細心の注意を払い、物音を立てないように静かに寝室を出る。
廊下に出ると、私たち夫婦の寝室の隣にある息子の部屋から、つけっぱなしのテレビの音声が漏れ聞こえてくる。彼もまた、深夜のテレビ番組を観ながら眠ってしまったのであろう。いつものこと。いつもの我が家。いつもの朝。天窓から入り込んだ陽光が、四角くなってフローリングに寝そべっている。
よほどの悪天候を除いて、休日の朝は、目覚めと共に愛犬と一緒に公園の外周を散歩している。かれこれ十五年前からの私の習慣だ。園内の大気に薄っすらと掛かった靄から、夏の始まりの匂いがする。どこかで私と同じ早起きのニイニイゼミが一匹鳴いている。
「こらこら、プーちゃん、走らない。ゆっくり、ゆっくり」
フガフガフガフガ。フォーン柄の雌のフレンチブルドックが、涎を垂らし、短頭犬種特有の唸り声を漏らして、前のめりで公園の歩道を進んで行く。いつものようにいつものごとく、リードを掴む私の指が引きちぎれんばかりの力で、ぐいぐいと引っ張って行く。
「スロー、スロー、おい、プー、スローだってば!」
散歩の主導権は、完全にプーちゃんが握っている。どの道を進むのも、どのタイミングで休憩をするのも、どの草むらで脱糞をするのも、すべては、プーちゃん次第。私など国の飼育基準や自治体の条例やご近所様の手前、見かけだけリードを握り飼い主の役をさせられている哀れなマリオネットだ。
思い返すと、八年前に死んだ同じくブリンドル柄の雌のフレンチブルドックもそうだった。あの子は、名前をブブと言った。ブブちゃんも、ぐいぐい引っ張る系だった。ついでに、ブブちゃんは、隙を見て私の太腿を噛む系でもあった。あの頃私の太腿は犬の歯形だらけだった。
「ストップだ! 落ち着け! もお、このやんちゃむすめが!」
今日も今日とて、むしゃくしゃするような、モヤモヤするような、なんと言うかこう、やりきれない気持ちでいっぱいになる。ブリーダーへ高いお金を支払って購入し、我が家に招いた二匹のワンちゃんが、偶然にも二匹揃って目も当てられないほどのお馬鹿だったということであるならば、まあ、それはそれで大変に悔しいのだけれども、でもまあ、諦めはつこうというもの。しかし現実はそうではないからね。だってプーもブブも、妻や息子の前では名犬なのだもの。妻や息子との散歩の時は、相手の顔をチラッチラ伺いつつ、歩行速度なんか、ばっちり合わせちゃうしさ。お手も、待ても、お回りも、事も無げに披露しちゃうからね。
切ないなあ。要するに舐めていやがるのだ。大いに、徹底的に、私だけを舐めていやがる。プリっとしたお尻を振り振りして無我夢中で公園の外周を走る愛犬を見るにつけ、この犬畜生、明らかに飼い主様である私のことは眼中にねえな。そもそもこん畜生、私の存在が見えているのかよ。と、とても不穏になる。まあ、私の人生において愛犬に舐められる程度のことは、珍しいことではないけどさ。だけどさ、それにしたってさ、飼い主に対する最低限の敬意は有って然るべきじゃんね。あ、ウンチした。
公園の南口のところで突然急停止をしたと思いきや、プーちゃんが、歩道の真ん中で立派な一本糞を絞り出した。私は、ウエストポーチから取り出したテッシュに愛犬の落とし物を包み、同じくポーチから取り出したビニール袋にそれを収める。
ふと見ると、公園の入り口のフェンスに、縦一メートル十センチ、横一メートル四十センチの工事標示看板が、ビニール被覆付きの針金で括り付けてある。
『ご迷惑をおかけします 公園のブランコを撤去します』
と、でかでかと表題があり、その下に詳細な説明が続いている。
『公園工事のお知らせ この度、公園のブランコが劣化しているため、撤去させて頂くことになりました。工事中は、工事車両の往来や騒音でご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、何卒ご理解とご協力をお願いいたします。なお、工事期間中は立ち入り禁止区域には入らないようにお願いいたします』
以下、工事場所、工事内容、工事期間、工事時間、施工会社が明記されている。「あれ、おかしいな、ちゃんと水平器で確認して設置したはずなのに」看板が右に傾いていることが気になりだす。実は、この工事標示看板は、地元の造園土木会社に勤める私が、二週間前に、ここに設置をしたものだ。
たかが数センチの傾きと言ってしまえばそれまでだが、例えば左官職人が、自分が金コテで均したコンクリートの数ミリの不陸を苦にするように、庭師が傍目には気にならない松の小枝を剪定してしまったことをいつまでも苦にするように、私のような工事監督は、自分が担当する工事の工事看板や保安設備の不備を苦にする。直ちに右角の針金を緩め、水平に設置し直したき衝動に駆られる。が、あいにく今は両手が塞がっている。針金を縛る道具もない。致し方なし。どちらにせよ、明日からこの公園のブランコを撤去する工事は着手するのだ。看板の傾きは明日の朝に是正しよう。
工事看板が設置してあるフェンスの向こうに、遊具エリアにある錆びだらけのブランコが見える。座板ブランコがひとつと、幼児用のセーフティータイプのブランコがひとつ、横並びで同じ桁から吊られている小さな遊具だ。工事用の仮囲いの中での沈痛な佇まいは、なんだか執行の時を待つ死刑囚のようにも見える。明日の朝から、私はこの小さな遊具を撤去する公共工事の主任技術者を担当する。言わば私はブランコの死刑執行人だ。
この時、朝靄の中に佇むブランコに、過ぎし日の幻影を見た。長身で筋肉質の少年が、板座のブランコに立って豪快に揺れている。桁を中心に一回転するほどの勢いでブランコを漕ぎまくっている。
「ブランコ坊や……そう言えば、最近見ないな……」
私がひとりごとを漏らすと同時に、彼はゆっくりと透けはじめ、やがてその幻影は静かに消えた。
糞の始末をしてくれた飼い主を横目に大あくびをした後、プーちゃんが、突如として再び猛ダッシュで走り始める。私は、プーちゃんに引きずられるように、右手に愛犬のリード、左手に愛犬のウンチの入ったビニール袋をなびかせて、初夏の朝靄を消散して走った。
この物語は、過去に投稿をした『「ブランコ坊や」と呼ばれる子供が、指で作ったピストルで僕を狙い撃ちしようとするので困っています』のリメイク作品です。