2-52
理奈の読みは当たっている。救済細胞の狙いは、こちらの2つのブラックリングだ。そのために俺達を、いや、主従の主たるこの俺を誘き出すために、この俺が愛する女を人質にとったのだ。理奈に負けず劣らず、素晴らしい読みだ救済細胞。俺にとって最も大切なものはリングじゃない。山野井千尋、その人だ。そうだ素晴らしい読みだ救済細胞。それほど望むのなら喜んでくれてやろう――この拳をくれて、粉々に叩き散らしてやるっ!
「相沢さん、行くのですか?」
「当然だ。姫を見捨てる王子がどこにいる」
愛する女が囚われの身になっている――動く理由など、この他には必要ない。その姫が、かつて悪姫であったとしても、もう今は関係ない。仁は、くだらない質問をよこした理奈に、燃える顔を突き付けた。
しかし、雪解水は、滴らない――
「相沢さん――勝算は、ありますか?」
理奈の顔には――呑まんばかりの大雪原が広がっていた。
それでも仁は、焼け野原にせんと燃え滾る。
「俺が進化形能力に覚醒していない盲目だから、そんな戯けたことを抜かすのか? ナメるなよ。お前が一番わかっているだろう――盲目でも開眼に勝てることを。進化形能力は、戦力の決定的差になりはしない」
そして得意気に、鼻を強かに鳴らしてやった。
進化形能力を行使したにもかかわらず、盲目ごときに敗れた開眼、橘理奈は――
「坊やでしたからね」
肩を竦め、ため息まじりに宣った。
頬をつねって泣かしてやろうかと思ったが、その声の底に忍ばせられている、温かな諦めこそを聞き届ける。しかして仁は、話をまとめることにした。
「じゃあ、明日もとい今日、サックガーデンに午後6時だな」
「はい。ですが、この公園に一旦集まりましょう。午後5時半頃でいかがでしょう?」
「いいだろう。いざ決戦だ。全てに決着をつけてやる」
仁は、そこに越えるべき崖があるかのように、きっと正面を見据え、固めた右拳を、左手の平に打ち付けた。
千尋を救い出し、救済細胞を粉砕し、俺が夢を叶えてやる――
怯えなどない――
必ず勝てる――どうにでもなる。
「千尋との結婚式には、お前も呼んでやろう。はち切れる程食うといい」
「ウエディングケーキ、イミテーションだったら帰りますからね」
ケーキのスポンジのように、軽い口を叩く理奈。こちらも臆してはいないらしい。
仁もまた、軽く口角を緩めて見せる。そしてブランコを二度三度と漕ぎ入れて、その勢いにまかせて飛び降りた。「遅刻するなよ」胸に闘志を抱き、決戦前の休息をとるべく、霜の降りた砂利を鳴らし、その爪先を巡らせる。
「おやおや相沢さん、靴紐が解けていますよ」
歩き出そうと踵を浮かせたときだった。その脚を払うようにして、理奈が言った。くじかれた勢いにバランスを崩したが、そのまま前屈みの体を堅持して、仁はその足元に眼を落とす。靴紐が――
「解けていないじゃないか……」
翅を休める蝶のような結び目が、そこにはちんとあるばかり。けしからん悪戯に、面を上げて振り向ける。まさに、その途端のことである――
浮き上がる首筋を押さえ付けるかのように、鈍い衝撃が落ちて来た。衝撃は満ち潮のように脳へと押し寄せ、意識が引き潮のように滑り去る。小さな貝殻のように残った意識で気付いて見れば、いつの間にやら視界の底に、凍った砂利が敷かれていた。
何が……起こった……?
仁は、頬を地面につけたまま、衝撃が落ちて来た空を、横目の端に引っ掛けた――
曇天の黒い夜空が――より黒い人影に切り取られる。
「はんぺんも、入れてくださいね」
振り下ろした手刀はそのままに――橘理奈は、そう言った。美し過ぎる、温か過ぎる――そんな笑顔を浮かべつつ。
この……裏切り……も――
凍った砂利は潤んで行き、そしてぬかるんだ砂になって行く――
やがてその中に――静かに貝殻は沈んで行った。




