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クリスマスイブか……。仁は思わず、その吐息を震わせる。とてもじゃないが、千尋と聖夜を過ごせそうにはない。彼女が行方不明で、どこにいるかわからないということもある。しかしそれよりも何よりも――今の彼女は、自分の知る彼女ではない。彼女はもう、どこにもいない。例年よりも差別的で残酷な聖夜の到来に、トナカイが引く橇で夜空を駆ける赤服爺に、ライフル銃をぶっ放してやりたくなる。彼の正体が父親であることを知った今、そんな憤りは、青一色の空に打ち上げる雨乞いへと成り下がる。再び吐いた嘆息が、お寒い響きを連れて消え入った。
それにしても、部屋の空気が悪かった。指でつつけばめり込んで、吸えば喉へと絡まりそうだった。一週間も換気を怠れば、どうやら空気も腐るらしい。仁は、温暖なる楽園から這い出して、頭を掻き毟った手でもって、カーテンと窓を引き開けた。途端に冬の深夜の冷気が、全身の毛穴という毛穴に突き立った。暖房に頼り切って薄手のパジャマしか着ていなかったボンボンが震える様は、冷めたローストチキンのようだった。思えば、雪が降るとの予報が流れていた。『今年は、ホワイトクリスマスになりそうですね』そうですか、白紙になってしまえばいいですね。魂のような白い息を、悴む両手に吹きかける。
「――ッくしゅん!」
ふいに――そんな音が夜闇を削った。野良犬がくしゃみでもしたのかと、仁は、その音のした方向、『相沢医院』の自立看板の陰に目を凝らす。自立看板は消灯していて、その場所を闇から自立させるのは、明滅する瀕死の街灯の明かりのみ。が、看板に凭れるその影が、野良犬のそれでないことはすぐ知れた――
野良犬ではなく――飼い猫だった。うらぶれたスポットライトの中、再びくしゃみが弾けると、そのサイドテールが振り回され、枯れ枝みたいに折れそうだった。
何をやっているんだあいつは……。仁は、悟られぬように、窓とカーテンを音なく引いた。部屋の換気はしっかりと完了していた。温まっていた室温は失われてしまったが、あのベッドの中は、未だ常春のように暖かいことだろう。一刻も早く、洞穴に飛び込み、冬眠再開といきたかった。しかし仁は、その瞳の中の楽園の情景を、瞼の裏で削り落とした。眉間を揉み、閉じていた目をこじ開ける。ドア・廊下・階段・玄関と、拳を振り、床を踏み鳴らし、荒々しい競歩をする。奥の部屋で寝ている父のことなどお構いなし。スニーカーの踵を踏み潰し、サンダルよろしくひっかけて、毟るようにドアを開けた。
「風邪を引くだろうが。医者の前で迷惑だ」
そのまま自立看板へと歩み寄り、声をメスのように尖らせる。
こちらの接近に気付いていなかったのか、ライダースジャケットに包まれた背中が、AEDをぶちかまされたように大きく跳ねた。
「こんびゃんば、あいじゃわしゃん」
「………………」
橘理奈は、振り向き様に、そう言った。いつものクールな表情で――鼻水を垂れながら。仁は、頭を垂れながらも、持参したポケットティッシュを差し出した。




