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「これでいいっすかね?」
鼓膜を伺う声がする。それでも望月は、呆然と立ち尽くしたままだった。しかしその頬を、生温かい何かに撫でられて、ぎくんと身体のスイッチがオンになる。今顎から垂れ落ちた何かを、見定めるゆとりなどありはしない。脅迫の色を聞き出した声に従って、横合いへと視線を擡げることしか許されない。そこには秀一が、ベテラン営業マンみたいな笑顔を広げていた。
「信者を好き勝手にさせて、洗脳が本物かどうかは確認してもらいましたけど、洗脳過程の方は、口頭だけで実演まではしていませんでしたからね。俺の能力説明に嘘があると思われても、今思えば仕方がない。重ね重ね、どうもすみませんでした」
そんな風に振る舞いながらも、彼は、足元の血溜まりに、咥えていた煙草を吐き捨てる。
望月は、湯冷めしたかのように、ぶるりと身震いを一つした。姫も恐ろしいが、秀一もまた恐ろしかった。どちらが恐ろしいかと問われれば、望月は姫であると答えるだろう。しかし彼女の恐ろしさとは、神や仏の恐ろしさに他ならない。確かに姫に比べれば、秀一は恐ろしいものでは決してない。だがしかし、その人間的な恐ろしさは、嫌に肉迫して来るものがあり、ともすれば、この腹に刺さるのではないかと不安になる。いずれにせよ望月は、恐ろしい二人に挟まれている我が身の立場を、発見せずにはいられなかった。中間管理職でノイローゼ、それどころの話ではない。下手を打てば、ハンバーガーパティにされかねない。それでも彼は、汗と脂を飛ばし飛ばし、そのハゲ頭を横に振る――姫は俺の味方だろう。この賢者を、この右腕たる人材を、斬ることなんてしないだろう。俺は岡島とは違う。姫に信用されているのだから。そのように頭の中で繰り返し、大きく吸った息とともに不安を呑み、勇気を出して吐き捨てた。
「おうおうわかった、もう疑わねぇよ。信じてやる。だから泣くなよ、面倒くせえ」
「『信じてやる』、か。そう言うなら望月さん――そろそろ俺への監視を、解いちゃくれませんかね」
姫は、秀一の編入を認める際、望月に命じた――『後ろの鉄面』で、秀一を監視せよと。何か怪しい言動があれば、すぐさま連絡をよこすようにと。その試用期間の実施を呑むことが、秀一に課せられた編入条件だった。無論その試用期間の終了は、姫が彼の働きを見て、直々に告げることになっている。当然の処置だと、望月は思う。奴が従える信者共は、あの夜あの市役所で、姫を殺そうとした軍隊もどきである。つまり奴は、かつては姫を殺そうとした敵なのだ。当然の処置だ。それでもしかし、望月はこうも思っていた――姫は、サバサバしているようで、その実かなりの神経質だ。自意識過剰、被害妄想、疑心暗鬼と言ってもいい。自分も姫の家来になった(なったようになった)、あの夜あの市役所で、その真っ黒い瞳でもって、心の中を漁られた。しかし今では、そんなことはされなくなった。それが望月に、大いなる自信を与えていた――俺は、姫の信用を、その右腕の資格を、勝ち得たのだと。彼が、本来ならばダンゴ虫みたいに背中を丸め、頭を低くし、視線を合わせないように努める人種を前にして、こんな傲岸不遜な態度をとれるのは、やはり姫という強力な後ろ盾があるからだった。秀一もそれをわかっているのだろう。本来ならばダンゴ虫みたいに蹴転がし、頭を踏み付け、視線で殺すような人種を前にして、心ならずも従っている。望月は、気分が良かった。虎の威を借る狐とはこのことだ。いや、狐ではなく、やはり豚が相応しい。威勢を被るくらいなら、自分の腸を引き出して引っ被り、パリッとジューシーに茹でられろ。
「それとこれとは、話が別だ」
「望月さんって、彼女の携帯覗くタイプでしょぉ?」
「いんや! 覗かねぇよっ!」
とは言うものの、彼女なんていたことがない。強いて言うのなら、右手が唯一慰めてくれる彼女である。そんな吹けば大気圏まで飛んで行き、瞬く間に燃え尽きてしまいそうな見栄を見透かしているかのように、秀一は、ケケケと忍び笑いを滴らせる。
「監視なんかしなくても、俺ぁ姫や望月さんを、裏切ったりなんかしませんよ。しかしまぁ、社内で靴底と手の平を摩り減らす営業マンにはなりたかないんでね。きちんと結果でもって、証明して見せますよ」
そして、その宣言に乾杯するかのように、コニャックの入ったスキットルの底を天井へ跳ね上げると、血生臭いパーティー会場を、上司をほっぽらかして後にする。このゆとり世代めが……。やはり、このバブル世代は舌打ちする。しかし秀一は、粉微塵になっている出入口の硝子戸に差し掛かった所で振り向いて、こんなことを言い出した。
「腹減りませんか、望月さん。よかったら、この後一緒にフレンチでもどうっすか? 勿論金の心配はいりません。ああでもやっぱり、これも社内営業に見えちまいますか?」
「うほっ! マジかよ! 二言はねえなっ!?」
ゆとりがあるって素晴らしい! 望月は、飢えたハエトリグサのように、ゆとりのない反射を示して見せた。
「美味いもん食って、明日もまた、姫のために働きましょうや」
望月は思った。なかなかどうして、中間管理職も悪くはない。その立ち位置は、上も下も飼い慣らすことのできる、そんな間合いの上にあるのだから。とんでもない二人を実質支配できる、そんなおいしい立場なのだから。5つ全てのブラックリングを、手中にしたも同然だ。やがてそれらは、姫の右手に、姫の右腕の手に――すなわち俺の手に、転がり込むことだろう。強盗なんて、野蛮な狩りしかできなかった前世の虎と俺は違う。生まれ変わりの俺は、獲物が自ずとやって来るのを待つ、聡明な狩りをする豹なんだ――
ついに夢が叶うぞ――賢者・望月辰夫様の勝利だ!
常軌を逸して上気する頭の中、そんなめでたい口上が、ファンタスティックに打ち上がる。前祝の晩餐会を開催してしまう程、フレンチという響きは、絢爛豪華を極めていた――さながらそれこそが、夢であるかのように。望月がもごもご言わせる涎には、給料日の回転寿司の味が染みていた。




