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この白いスーツのいかつい男、鬼を名乗る者の姿は、どうやら自分以外には見えていないらしい。彼と会話をすれば当然必然、周囲には、脳内で作り上げた架空のオトモダチとくっちゃべっている容態が見えることだろう。仁は、そんなかわいそうな奴にでも、この際いっそなってしまいたかった。こんな得体の知れない存在に絡まれるなど望むところではないし、どうせ絡まれるのなら、愛しの幼馴染に、艶めかしい所作でやってもらいたいものだった。しかし、そんなことを口走った日には、三途の川でダイビングと洒落込むことになるだろう。従う他に、選択肢はなかった。そんなわけで、仁は、鬼を名乗る者に追随し、駅近くのコインパーキングにやって来た。人目を気にする仁への配慮なのだろうが、なぜか車が一台も停まっておらず、人目も人気も感じられない。訝しむ仁へ、鬼を名乗る者は、得意気に親指を立てて振り返る。光る白い歯。またもや不思議パワーの炸裂らしい。いわくつきの空き部屋みたいな駐車場の中央で、命の怪しい外灯に身体をつつかれながら、仁は奇怪と向かい合う。
出し抜けに、しかしおもむろに、鬼を名乗る者は、その懐に手を差し入れた。
「言っただろう――お前は選ばれたんだと」
金棒や鉛玉を警戒して額を庇った仁だったが、差し出された傷だらけの握り拳へ、その眼をぽとりと落っことす。拳が、帆立貝のように開かれる――
そこには――黒い指輪が安置されていた。
髑髏を象った、指輪だった。触れずともわかるずしりとした質感こそ金属のようではあったが、その光沢は、それのものとは思えない程に、生温かく妖艶だった。仁の右手は、誘われるように伸びていく。吸い付き馴染むかのようだった。黒き指輪に、人差し指が挿入された――
すると、頭の奥底に、一筋の光が疾駆した。鋭利な刃物で払ったような、そんな光の傷口は、だんだん大きく広がって、そこに、夜に凪ぐ大海を曝し出す。不審な波が、立ち始める。次の瞬間、海面から光が噴出し―ついに夜の闇を駆逐した。
仁は、息も絶え絶えに、汗でしとどに濡れていた――まるで、深い海底から上がったかのように。微かな光の波形さえも見えてしまいそうな瞳でもって、彼の顔を睨み上げる。
鬼を名乗る者は、満足そうに笑っていた。
「理解できたか?」
できるものかと思ったものの――しっかりと、理解できていた。
海を破り昇った光の中、そこに見出したものは――一冊の分厚い本だった。題目はなかった。しかし、そこに何と書かれるべきかは、訊くまでもなくわかっていた。
「大葉恭司――知る人ぞ知る、ギャングのビッグスターさ」
聞くまでもなく、わかっていた。大葉恭司といえば、小説や映画にもなった、素手喧嘩最強を誇る伝説の極道である。戦後社会の混乱の中にあった東京を支配した遠野組の大幹部で、本当にノンフィクションなのかと疑ってしまう程の武勇伝が、綺羅星の如く伝えられている。中でも、遠野組が東京を手中に収める前に勃発した抗争において、四割もの敵対組織をその拳一つで叩き潰したエピソードは有名であり、『覇拳』の異名をとった彼の実力の程を、明々白々と物語っている。が、何も彼が有名人だからといって、わかったわけでは断じてない。仁は、あまりその手の男に興味がない。それでも今は、その漢を自分のように知っていた―
その本の、その物語の、その主人公は――姿と時代を変えて、ここにある。