2-38
『シュレーディンガーのアイス』――
可能性は可能性――
食べて確認するまでは――『あたり』かどうかなんてわからない。
しかし、棒に烙印されたその三文字を透かし見たように――橘理奈は、言い放つ。
「揃い過ぎています。さすがに庇えませんよ、相沢さん。黒です――山野井千尋さんが、ジャスティスリッパーです」
北風が駆け回り、立木の枝々は笑いさざめく――
はしゃぐ教室の只中で、そんなに馬鹿にはなれないと、自席に蹲る馬鹿のよう――
仁はその息を押し殺す――何が『あたり』だ、こん畜生
「立ち止まっているゆとりがあると思いますか? 進化したのは――ハザードレベルなんですよ。より危険な思想を育むのは、より危険な力でしょう」
旋毛に理奈の声が降って来る――まるで、過ぎ去った時を教えるチャイムのように。
仁は、ブルーシートをかけられた巨大な死体に、漂う視線を漂着させる。
「建造物さえ斬り果たす破壊力。ジャスティスリッパーは――開眼である恐れがあります」
開眼――進化形能力に目覚めたブラックリング所有者。
耳に群がる残響を、仁は払おうともしなかった。武神に愛された千尋が、ブラックリングを持ち、基本形能力を使い、超凄腕の剣客であった前世の記憶を顕在化させるだけでも恐ろしいことだというのに、進化形能力をも獲得したとしたら、それはもう、絶望に人の形を与えたようなものである。いかなる手段をもって何者が立ち向かおうとも、大嵐の大海のど真ん中にぽつんと筏を浮かべるような、明媚な自殺行為にしかなりえない。凪ぎの浜辺に打ち上げられた翠緑の若布のように、仁の表情は、鮮やかで醜い無となった。
そして理奈の声が、やはり予定通りに、鳴り告げた。
「山野井千尋を捕縛するべきです。今や彼女は殺人鬼であり――相沢仁が最も愛する幼馴染ではありません」
ついに仁は――その目を閉じた。俯けた目でさえも、閉じずにはいられなかった。
だがしかし――その胸に、和やかな感触が押し付けられた。
目を擡げ、開け放ち、そしてそれを映し込む――
自動販売機の上から、この身と同じ地に降り立った理奈が、押し倒すように縋り付き――ささやかながら柔いその胸を、潰れんばかりに押し付けていた。
「どうこう言いましたが、私はあなたの臣下です。どうあっても橘理奈は――相沢仁の味方です。お願いします。どうかその心を開いてください」
まるで、凍ったドアの前に温かい食事を置くような――そんな表情が、そこにはあった。
敵になったり味方になったり、勝手な気ままな野郎だな。猫顔だからなのか中坊だからなのか元女優だからなのか、そんなことは知らないが、こいつには、確かな自分が欠けている。しかし、そうは思っても――
仁は――押し付けられる胸に、いつかしかその胸を委ねていた。体温と体温、鼓動と鼓動とが、一つになる。それ故にその口は――
「千尋に突っかかるな。他を当たれ。てめえがブン回してんのは――証拠のねえ推測だ」
そのように――吐き捨てずにはいられなかった。
もし理奈が、その推測の中に、明確な証拠という極め手を含ませていたのなら、推測は推理となり、完全なチェックメートとなっていただろう。たとえばそう、『遺留品』とか『秘密の暴露』とか、そんな推理小説ではお馴染みの、美し過ぎる証拠を含ませていたのなら。
それらの証拠が、バンダナとカウントが――キングを守る。
キングをクイーンに譲ったキングは――更にため息を吐き捨てた。
「そうですか……そうですよね――ごめんなさい」
理奈は――全身の活力が抜け出たように、その身を離し、俯いた。その顔は見て取れない。だが仁は、お手までしたのにカリカリを貰えなかった猫を見出して、今度は鼻を鳴らしてやった。草でも食ってろと、そっぽを向く。
武道館は、変らず群衆に取り巻かれていた。校内事件というものは、やはり生徒にとってはイベントで、彼等は、さながら鴉のように、館内をどうにか覗こうと首を振る。しかし教師連中にとっては、面倒なトラブルに他ならない。雀のように右往左往し、本日の臨時休校を叫んではいたが、それでも鴉は、そこにある死肉に夢中だった。腹を空かせた野良犬が、飼育小屋の鶏を食い殺したのとはランクが違う。今加護江市を騒がせているジャスティスリッパーの犯行は、A5ランクを超える肉だった。
仁は、その一羽になりたかった。だがしかし、元来た道を引き返す。その後ろ姿は、出勤早々リストラを言い渡されたサラリーマンのようだった。
「仁くん――っ!」
二三歩行ったところで、突如正面から、声をかけられた。俯けていた顔を上げて見れば、千尋の母が、息を切らして立っていた。挨拶をする気力もなく、瞳の中で、彼女を背景に溶け込ませる。
「千尋を見なかった!?」
叱り付けるかのようなその語気に、尻込みせずにはいられなかった。仁の知る彼女は、昔の千尋に似て、引っ込み思案な性格だ。いかに娘の高校で事件があったにせよ、討ち入り同然に乗り込んで来ることなど考えられない。しかしその双眸は、色めき立って据わっていた。吉良上野介にでもなった気分だ……。仁は、身震いするように首を振る。脱兎の如く駆け出したかった。しかしそんな彼の双肩に、彼女はさながら猛禽類のように、がっしり爪を突き立てた。そして一声、甲高く鳴き立てた――
「あの子――金曜日の夜に出掛けたきり帰ってないのっ!!」
だがしかし、次の瞬間には、入水をしたかのように息を止めた。瞳に宿す瞳、湖面越しの冬月には、青い兎が蹲る。仁もまた、彼女に倣い視線を投げた。青い青い――建物へと。
「ちょっと――大丈夫ですかっ!?」
理奈が横合いから飛び込んで来た。そしてがばりと屈み込む。気付けば千尋の母が、羽毛のように崩れ落ちていた。
仁は、何者も何物も、横目にもかけず歩き出す――
聞きたくもない注釈、必要のない駄目押し――
これは悪夢だ――
バクに食ってもらいたかった――
どうにもならん……どうにもならん……
自分では――とても食おうとさえ思えなかった。




