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「相沢先輩、おはようございます」
頭上より、耳慣れない女の声が降ってきた。しかしながら、この学校において、相沢姓は自分を措いて他にはいない。思わず蹄を押し止め、馬群を見送り、そちらへ馬首を巡らせる。自動販売機の上に腰を掛け缶コーヒーを飲んでいる、平馬高校の女子生徒。それは彼女――橘理奈に相違ない。ムカつく程に、高校指定のセーラー服と、何より後輩じみた仕草が様になっている。才能の無駄使いだ……。仁は、思わず口角を痙攣させる。
「どうですか? 似合っていますか? もし先輩が褒めてくれるのなら嬉しいのですが。更衣室から拝借しました。さすがに私服じゃ目立ちますしね。先輩の言う通り、今度はきちんと変装をして来ましたよ」
へ~、そう……。仁は、憮然としてため息をつく。とりあえず、その制服をきちんと返却してもらいたい。見るに堪えないということがわかったのだろう、理奈は、演技を打ち切り、校則にうるさい平馬高校(髪をワックスで固めるだけでもガチガチがなる。岡島秀一? 誰だそいつは?)では没収対象となること請け合いの、ヴィヴィアン・ウエストウッドのプレミア付きライターを、スクールバッグから取り出して、首からじゃらりと垂れ下げる。
「コーヒーにパン。そんな朝食も、たまには新鮮でいいものですね」
そして、平素の涼しい表情で、熱い食事を開始した。高校近くのベーカリーショップで買ったものだろう、ボリューム満点のカツサンドやカレーパンなどを、五個も六個も取り出し頬張り、尻の下の自動販売機で買ったものだろう、コーヒー風味の練乳と言った方が適当な、そんな甘ったるい液体でもって喉を潤す。パンがなければ人さえ食らいかねない大食いクイーンの食欲に、壮絶な胃痛を感じたが――仁は腹を決めて切り出した。
「カフェインで頭がすっきりして、炭水化物でエネルギーが補充されたお前に、訊きたいことが幾つかある」
「いつもは丼物を食べているんですが、今日はお母さんがご飯を炊き忘れてしまいまして」
「朝食のこたぁどうでもいいっ!」
「いけませんよ、相沢さん。朝食はもりもり食べないと」
「お願いだからボケないでっ!」
とは言ったものの、金曜の昼を最後に、米の一粒も食べてはいない。とても腹の足しになるとは思えなかったが、自動販売機でコーンポタージュを購入。悴む指で、プルタブを引き起こす。「それで足りますか?」冬の牙さえ滑らせてしまいそうな生脚が、睫毛をそよがせるように揺れていたが、一生懸命にシカトした。
閑話休題――
「まず、どうしてお前がここにいるんだ?」
理奈は、やはりいつものチュッパチャプスを咥えてから、こう答えた。
「朝食を調達に、ではなく、ブラックリング奪取の任務がてら、散歩をしていましたら、何やら平馬高校が騒がしく、様子を見るために侵入しました。試食会でなかったことが、悔やまれます」
本音を隠す努力をしろ、何よりうちの高校は調理師学校なんかじゃねぇ。仁は、底にコーンの粒が残ってしまった缶を忙しく振りながら、続け様に質問した。それは、最も重要な案件だった――
「この騒ぎは一体何だ。教えろ。お前はあの中身を知っているんだろう?」
コーンの粒を諦めて、武道館を睨み付ける。内部の状況は、人の壁に阻まれて――何よりブルーシートに覆われて、見て取ることなどできやしない。
理奈の口内で、キャンディーが歯に擦れる音が、小さく鳴る「お腹にものが入っている状態では、気が進みませんね」
仁の手の内で、スチール缶がスクラップになる「吐き出せよ」
「殺し――ですよ」
理奈が吐き出した声の底には、厭悪が重々しく沈んでいた。
仁は、本当に起きていた校内事件に愕然とする。投げ捨てたスチール缶が、ゴミ箱に弾かれ、地面にけたたましく落下した。




