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すると、はっきりとした重みを持つ律動が、徐々に徐々に、こちらへと這って来た。望月は、能力を解除して、正門の方に、生の視線を投げ出した。そして思わず、下の顎を垂れ下げた。炎を千切り、星を雹に変えてしまいそうな、そんな無機質で破壊的な駆動音を轟かせる巨大な影。松林の中からでもはっきりと視認できる重厚な存在が、そこにはある。姿を見せたのは――黒塗りの戦車だった。
いくらなんでもやり過ぎだ……。望月は、震える指で眼鏡のブリッジを押し込んだ。しかし戦車は、異常を均すようにアスファルトをキャタピラで鳴らして進んで行く。そうして松の幹や枝の向こうに姿を消した。いくらなんでもやり過ぎだ、どう考えたって巻き込まれる……。あの兵器のエンジンが震わす空気のみならず、その絶大な危機感に包まれて、肉が波打つ全身は、今にも細胞レベルで崩れてしまいそうだった。流れ弾に被弾し、四散する我が身を想像する。彼女は欲しいが、背に腹はかえられない。虎児を得たければ、大きなペットショップにでも行けばいい。賢者の頭は迅速に回転し、戦略的撤退を命じたが、腰は気抜けし、膝も泣き笑いを繰り返す。望月は、苛立たし気に『後ろの鉄面』を再起動。監視対象は、言うまでもなく彼女である。彼女しか、頼る者はいなかった。
彼女は――威風堂々として立っていた。あの黒い戦車は、黒い服の一団を横手に守るようにして、彼女の前に立ち塞がっている。天狗の鼻にも似たその主砲がおもむろに旋回し、標的の眉間を撃ち抜かんばかりに、至極精密に突き付けられた。やはり視点的に自分が狙われているような錯覚に陥って、思わず仰け反った望月は、背にしていた立木に後頭部を強打して、無様にその場で転げ回る。目の前に火花が散って、見つめる背中に降り掛かる。すると背中は、熱がるように上下に震えた。震えた? 実際には、その背中に火花は降っていない。しかしそれでも、その震えは止まる気配を見せやしない。いつの間にか望月は、踏まれたボールのように動きを止めていた。やがてその耳朶が、千切れんばかりに引っ張られる。彼女は、震えてなどいなかった――
「ふふ……きゃ……きゃふふふふふふふ…………」
彼女は、笑っていた――
子供のような――無邪気な笑い声だった。
「本当に軍隊みたいな連中ね。驚いたわ。あなたもそうよね? ねぇ――ストーカーさん」
瞳を焼いた白日の如き閃光に、体中の感覚が蒸発する。流れ弾を視認することもなく、早速我が身が四散した――そんな幻覚に襲われた。望月は、蹲ったまま、後頭部を抱え込んだまま、顔を地面に埋めたまま、その光景を凝視した――
監視の視界、彼女の背中越しに視た世界――
そこには、口を開ける戦車の主砲はない――
木の陰からはみ出した、股座の裂けたジーンズに包まれた、デカい尻があるばかり――
望月は理解した――彼女が俺を見ていると。
「暴れていれば、きっと会いに来てくれると思っていたわ。あなた――ブラックリングの所有者よね。そして恐らくは、相手を四六時中監視できる能力を持っている。姿は見えなくても、わかっていたわよ。背中に粘っこい視線を感じていたもの。そういう趣味は、あまり趣味じゃないのよね」
それでも望月は、頭を振った。その視界に入っていようと、その視線に刺されているとは限らない。たちまち安堵し、そのふてぶてしい身を起こす。が、そんな神経が躾糸に等しいことを、たちまち思い知らされた。知らず知らずのうちに、首を後ろへ捻っていた。生の瞳でもって、ついにそれと対面した――
柳が葉を垂らしたせせらぎに、一つの影が投身し、真円の波紋に囚われる。すると川面には、刃の如き光が揺れる。尻と睫毛を垂らした目。しかし目付は反り返る。そこに据わった黒き瞳は、こちらを捕らえて放さない――
確かに俺を見つめている――
彼女が――
通り魔が――
山野井千尋が――確かに俺を見つめている。
そしてその唇には、酷薄なる笑みが這い上がる。超ド級の恐怖に、大きな腹がぎゅるぎゅる喚き、望月は、ブリーフの中に卵を生み落としてしまいそうだった。ポークなんだかチキンなんだかわからない。どっちなんだか、わからない。
「けど、出てきてくれると嬉しいわ――膾にするより、今は仲間にしたいもの」
いずれにせよ、まな板の上にあることに違いはなかった。望月は、松の木の陰から完全に這い出すと、物言わぬ肉や魚のように、笑顔という死相を浮かべて見せた。
「交渉成立、ね。じゃあ一緒に戦いましょう、仲間だものね――と言いたいところだけど、今回は見物してなさい」
彼女はさっぱりとした、それでいてしっかり値の張りそうな、高級寿司みたいな笑顔を返す。そして、出世払いよとでも言うように、再び頼もしい背中を見せ付けて、放置していた敵へと向き直る。敵は、軍服を着ていない軍隊だ。しかし彼女は、武者震いのひとつもしなかった。そして、必勝を立証するような口調でもって、このように呟いた――
「私はまだまだ強くなる――ヒロインになれる、その日まで」
踊る黒髪――
走る金属光――
咲き誇る鮮血――
倒れ伏す黒い服――
そして時は――満ち満ちた。
炎よりも色濃い緋色の雷が、夜の帳を斬り裂いた。この瞬間を待ち望んでいたかのように、左手人差し指をめぐる黒き髑髏が――その双眸を見開いた。
やがて雷は治まり行き、盛りを終えた花火のように、光の粒子となって垂れ落ちる。だが、盛りは始まってさえいなかった。光の粒子が、流砂の如く渦を巻く。それは消え入る前、最期の刻に収束し、残り香のように、傷跡のように、予言のように、描き出す――
天空高く君臨し、地上を嗤う――血染めの髑髏を。
望月辰夫も――思わず嗤った。これまで自分を地に這いつくばらせた一切を、今や嗤わずにはいられなかった。この男は、曲がりなりにもジョーカーを手に入れた。勝負の女神は、どうにも悪戯好きなようだった。
その日は、2013年12月の13日――
13日の、金曜日――
とってつけたような――不吉な日合の夜だった。




