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漆塗りの夜を撫でる男もいれば、泥塗れの夜を這う野郎もいる。『変質者に御用心』電柱に立てかけられた看板の、そんな文句にアンダーラインを引くように、不気味な影が通り過ぎる。黒いダウンジャケットに身を包んではいるものの、それは薄汚れたゴミ袋のような質感で、夜目にもそのみすぼらしさ故に人目を引く。おまけに、赤子を丸呑みしたかのような腹をバウンドさせ、冷たいお薬をお注射されたかのようなお目々をして、穏やかな月星の光の中にあっても、そのハゲ頭はパトランプのようにギラギラ瞬く。自意識過剰に育てられた小学生女子ならば、きっと防犯ブザーをがなり立てることだろう。そんな有様を呈しながらも、
「俺は忍者、誰も俺の進撃に気付かない。賢者のうえに忍者でもある俺――かっこいい!」
望月辰夫は、夜に紛れて街を進んでいた――進んでいる、つもりだった。彼は、かわいそうな奴だった。誰も彼の進撃に気付かないわけではない、気付かない振りをしているのだ。夜中にバイクの爆音で自己主張をしちゃう青二才が蔓延る背景と変わらない。それは、同情に昇華された軽蔑だ。彼の目に映らなかった行きずりの人間の一体何人が、彼を煩わしいと思っただろう。それでもせめて、好きにさせてやろうと思っただろう。忍者? 賢者? 愚者の間違いである。しかし、自分に酔いしれているこの男は、得意満面で口角を吊り上げる。息を切らしながらも、汗と脂が滝のように流れても、節々が外れそうな程に痛んでも、ポジティブにエネルギッシュに、目的地に向かって駆けて行く。煙草屋を横手に通り過ぎ、ラーメン屋の前に立ったとき、その建物の全貌が浮かび出た――
加護江市役所――本日の公務はとっくに終了していて、教会にも似た建物からの明かりは既になく、外壁に染み込んだ夜の色は、月や星やヘッドライトの光で擦ったくらいでは、一向に剝げ落とすことが敵わない。望月は、大きく頷き息を吐くと、再び爪弾きにされたダンゴ虫のように駆け出した。信号を無視して、横断歩道を渡る。
中古のロレックスで時刻を確認する――午後9時の5分前。
急いだ方がよさそうだ。彼女はもうやって来ている――望月辰夫は、知っていた。
しかし、彼女が約束を守ろうとも、相手の方はどうだろう。ともすると、来ないかもしれない。いや、来ないだろう。なぜならば、俺なら行かない。望月は、そう予想した。だとすれば、こんなチャンスは二度とない――二人きりで話せるチャンスである、逃す手はない。賢者・望月は、そのように画策した。これまでこの男は、彼女と接触する機会を、おめおめと見過ごし続けてきた。だがしかし、今宵に限っては燃えていた。深謀遠慮の賢者様の頭脳が、『機は熟した! 燃えよ望月!』そのように告げているからだ。本当に燃えてしまえばいい。そしてラードみたいにとろけてしまえ。
最後に見た彼女は、この市役所の駐車場にいた。そして待ち人を待っていた。閉まっていた正門をどうにかこうにか乗り越えて、もうかれこれ5年は来ていない市役所の敷地内へと侵入した。しばらく進むと、駐車場が開けた。なるほどさすがにいい場所を選ぶ、絶好のステージだ。繁々とそこを見渡した。やはり水銀灯は消えていて、駐車場は闇の底に沈んでいた。向かって左手には鬱蒼とした松林が広がっており、その緊密な枝葉をかろうじて透かした月や星の光の断片は、かえってその黒い壁に箔をつけている。絶好のステージだ、俺にとってもな。望月は、外連味たっぷりに、眼鏡のブリッジを押し込んだ。そして、抜き足差し足忍び足、そんな忍者というよりはコソ泥の所作でもって、駐車場を奥へ奥へと進んで行く。市役所に通じる段々に、彼女は座して待っている。やはり、人の気配がする。彼女のものだろう。当然だ、既に彼女は来ているのだから。




