2-25
夜が街に胡坐をかいた。その膝元に散らばる明かりは豪奢な馳走。星と月は歌を口ずさむように輝き、街路樹の枝を透く北風さえ伴奏に聞こえてくる。
都内への玄関口となっている最寄り駅でバスを降り、構内にある行きつけの喫茶店の自動ドアをくぐるなり、岡島秀一は煙草を咥えた。すぐさま坊主頭のアルバイト店員が飛んで来て、その先端に火をつけた。ちょっと前までは、とてもかっこいい正義感を振り翳し、あれこれ口うるさく注意してきたものだったが、今や従順な奴隷である。それを体現するかのように、彼は跪き、額を床に押し付ける。秀一は、まるで優等生が赤ペンの入った答案についてそうするように、店の隅々にまで目を配る。店長も店員も客も、店中全ての人間が――ひれ伏していた。ここに至って彼は、岡島秀一らしい、嗜虐的な笑みを剥き出した。
馬鹿な野郎がどうやったら楽に生きられるか知ってっか――
人間なんざ――辞めちまうこった。
足元の丸い頭に煙草の灰を落とし、得意気に白煙を吹き出して、天井の照明を陰らせる。そして、一人大名行列といった体で、足音高く、店の奥へと歩んで行く。『STAFF ONLY』と警告する札を無視し、ドアノブを回した。しかしその向こうに、事務所はない。がらんどうの室内の床に、地下へと続く階段口が、ぽかんと開かれているだけだ。かと言って、階段を下りた先にあった扉の向こうにも、事務所などは存在しない――
巨大な薔薇のようなシャンデリア、光が砕ける床一面の天然大理石、美術館に展示されていそうな深厚たる趣を醸し出す絵画や壺、そして鎮座するグランドピアノ。扉を開ければ――銀座の高級クラブのような部屋が広がっていた。
「お帰りなさいませ――っ!」
学ラン姿の秀一が開け放たれた扉の前に立った途端、そんな雷声が轟いた。眼前もとい眼下には、フロアを埋め尽くさんばかりの、やはり平伏した者達が、絨毯のように広がっていた。男も女も、老いも若きも、皆が皆、黒いスーツを着込んでいる。しかし連中は、ボーイやホスト、ましてやホステスなどではない。
「うるせぇよ、馬~鹿」
秀一は、そうは言いながらもまんざらでもない表情で、象でも寝そべることができそうな巨大なソファーへ、一人身体を沈め、清水の如く透き通る硝子の卓の上に、どかりと組んだ脚を投げ出した。ぞんざいに指を弾くと、床にへばりついていた女の1人が立ち上がり、フロアの奥に消えたかと思うと、すぐさま氷の球が落されたグラスとレミーマルタンルイ13世のボトルを銀の盆に載せて現れて、恭しく、彼の傍らへと歩み寄る。グラスを手にすると、重厚な明暗を溶かした琥珀色の液体が注がれた。頭脳労働にはニコチンと、何よりアルコールが欠かせない。秀一は、煙草をひと吸いし、次いでグラスを傾けた。すると、黒服達が、平服したまま、再び声を張り上げた。
「教祖様に、救済細胞に――乾杯っ!」
学生や会社員が往来する駅の一角、喫茶店のアンダーグラウンドにあったのは――宗教団体『救済細胞』の本部であった。しかしながら、彼等を宗教団体と呼んでいいものかどうかは疑わしい。明確な教義を持っているわけでもない、儀式行事と言えば教祖を仰ぎ奉ることぐらいで、信者の教化育成などはサボテンのように放置されている。『人種・国籍・性別・社会的身分による垣根を打ち壊し、その果てに、地球という名の理想国家を築く』そんなどうにもきな臭い目標を掲げているところを見ると、宗教団体というよりは、最早テロ組織に近いのかもしれない。教祖様である秀一自身が、それは一番よくわかっていた。それでも、テロ組織よりは宗教団体と名乗った方が、耳触りがいいと思うのは、彼の頭の高さ故のことだった――
俺様は、御上に弓を引くよりも――神として崇められる人間だ。
そして秀一は、グラスをとった右手に眼を落とす――
親指の黒き髑髏が、微笑みにも似た輝きを放つ――異界の指輪・ブラックリング。




