1-5
「す、すみません―」
仁は画鋲を踏んだかのように我に返る。それと同時に大慌てで足をどける。だが、遅かった。画鋲を踏んだ方が、マシだった。いかにも獰猛な白い蛇革の靴の爪先には、しっかりと、泥の足跡が塗られている。自分のような顔と図体だけの偽物とはわけが違う。面を上げた先に待っているのは、きっと本物に違いない。地面に穴を掘ってでも逃げ込みたかった。しかしそんな衝動は引き摺り出され、明後日の方向へとうっちゃられる。無言の圧力がのしかかる。それでも面は上げろとのしかかる。見上げるしかなかった。明後日でも明日でもなく、むしろそれらを絶やす、今現在の方向を。暮れていく意識。しかしながらその中で、灯火のような疑問がふわりと揺れた。どうして前にあったあの足は、踵ではなく爪先を、こちらへと向けていたのだろう――どうして、列の進行方向とは真逆の方向へと、向いていたのだろう。
が、そんな疑問はリリースされ――視線だけが、キャッチされた。
「いよう――少年」
予想通りの人種が、そこにはいた。足元と色を合わせた白いダブルのスーツとソフトハットで身を飾り、露出したなめし皮のような肌という肌には、縦横無尽の傷痕が走っている。そして何より、見上げた途端に圧殺されんばかりの大きくぶ厚い体躯を振り翳す、そんな男が――こちらを向いて立っていた。そして、白い歯をそれ以上はないくらいに剥き出して、スカーフェイスを、ミリオンダラースマイルに変えていた。仁の身体は、今度こそ圧力の中に硬直した。さながら、コンクリート詰めにされた死体のように。
しかし、その男は――
「星が歌うビューティフルナイトに、随分しみったれた面をしてんじゃねぇか。何か悩み事でもあんのかい?」
威圧するように見下ろしながらも、ドアを優しくノックするような、そんな口調でもってそう言った。しかしながら気障な物言いだ。そもそも空には星どころか月さえも出ていない。泣き出すわけでもなくただ拗ねている子供のような、面倒臭い曇天があるだけだ。お洒落なキャラを演出してみたかっただけなのだろう。口が裂けても言えないが、この軟派野郎は、極めるべき男の道を踏み外している。表情こそビビらせたままだったが、仁は胸の中で舌を出す。
「まぁ、リラックスしろや。話はちっとばかし、長くなるからよ」
すると男はそう言って、手本を示すようにして、ラッキーストライクのパッケージを取り出すと、煙草を咥えマッチを擦って火をつけた。
話はちっとばかし長くなる? やはり指ぐらいは差し出せと? 再び冷たくなる仁だったが、頭の外灯が夜闇を払い、その身体にぬくもりさえも吹き込んだ。この男は、バスを待っていたんじゃない――この俺を待っていたのだ。だから、乗車待ちの列の中、バスに搭乗口に、その背を向けて立っていたのだ。しかし一体、何のために――