2-22
「そんなわけないでしょ――」
当然、落着もしていなければ、茶番になどなりはしなかった。千尋の背中から――声が狼煙のように立ち昇る。彼女は、サイドテーブルの上の丸眼鏡をとり、それをあるべきところに押し込んだ。滝川悠の顔ができあがる。そしてその顔に、自分の顔を食い付かせるよう突き合わせた。
「悠――購買部にお昼を買いに行ったあなたが、どうしてトイレなんかで倒れていたの?」
千尋は問い掛けた。まるで狼煙が消え行った晴天のような、そんな声で問い掛けた。やはり千尋の表情は、仁の位置からでは見て取れない。その屈められた静かな背中を、ただただ見下ろすばかりである。だがしかし、いややはり、やがて訪れた静寂の底に――遠雷のような人馬の足音を耳にした。無論その音は、見下ろす山から垂れ込めていた。
それでもしかし――麓の金の田んぼの真ん中で、彼女は赤とんぼと戯れた。
「石井大輔くんと染谷琴美ちゃんに、蹴られて転んでゴッチンしちゃった」
滝川悠は、そう答えた――あっけらかんと、笑みを浮かべて。
千尋の背中、その後ろ髪が艶めいた――山を駆け下る刃の疾風のような艶だった。だがそれは、脊柱へと吸い込まれる。まるで風が、森に潜るようにして。
再び静寂が横たわる。今度こそ――そよ風の息吹さえも聞こえなかった。
「この辺で、俺様の解説がいるかぁ?」
ややあって秀一が、北に向けた枕を蹴飛ばすような口調でもってそう言った。誰もが無言のままで、その反応は、肯定として受け入れられた。柄の悪い猫背が、注目と傾聴を煽るかのようにゆっくりと移動し、まるでソファーに沈められるようにゆったりと、ベッドの枕側の壁に凭せ掛けられる。やはりややあって、愚民を洗脳せんとする独裁者のように、しんみりと――その唇と舌は動き始めた。
「今年の春、我が2年3組に大事件が起こった――山野井千尋の手によって、あの滝川悠が、いじめから解放された。この事件は、学校中が知るところだろう。正義の味方という強力な家屋に獲物を囲われて、狼共は、鳴りを潜めた」
そんなことはわかっている。仁は、うんざりとした様子で目を閉じる。その囲いとやらを築くため、人柱になった可哀想な男を知っているからだ。もったいぶるな、早くしろ。再び口を閉ざした秀一を、視線でつつく。それでも演者は、しっとりとした間を養い続ける。忙しい壁掛け時計の秒針さえ、声を潜めずにはいられなくなった時である。その唇は――残酷なる牙を見せ付けた。
「だがな――この世から淘汰がなくなるはずはねぇ。摂理が崩れるはずはねぇ。人間だって獣なのさ。食うか食われるか、狼になるか豚になるか、そのどちらかしかねぇんだよ。人間に成り済まそうが獣は獣。もう一度言ってやる。狼共は、鳴りを潜めたんだ。煉瓦の家が崩れるそのときを待ち、森の中に紛れて潜み、それでも涎で喉を鳴らしてたんだ。その牙が剝かれた今、豚は食われるのを待つしかねぇだろう?」
まるで自分がその狼であるかのように、舌で磨いた牙を唾液でもってぎらつかせながら、秀一はそのように語り尽した。そしてやはり、聴衆の反応を観覧するように、間を置いた。
隆起するようにして――あの背中が立ち上がる。
次の瞬間――砲声にも似た音が鳴り渡り、部屋全体が大きく揺れた。




