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『廊下を走るな』という慣習を、戦場の兵士が軍靴でもって平和な未来へと蹴り飛ばすかのようにして、千尋は保健室へと駆け込んだ。その背中を追いかけて、仁もまた、秀一と隣り合って後から続いた。何回か来たことはあるが、何度来ても好きにはなれない。そんな空間へと身を投げる。遠近感が払拭されてしまいそうな、白一色の室内。本棚には専門書が隙間なく納められており、デスクの上の備品も新品さながらの光沢を発している。空気中には埃一つ舞ってはおらず、消毒液のにおいさえ感じない。清潔と言うよりは潔癖、一面の銀世界と言うよりは一面のアイスバーン。仁は、この部屋を凍てつかせている、『氷の局』と呼ばれる養護教諭に、松明のような視線を突き付けた。しかし、氷柱に似た顔には、外からも内からも、いかなる色も差し込まない。養護教諭は、「こちらへ」とだけ伝達し、その背中を振り向けた。そして、一番手前のベッドへと歩いて行き、カーテンを円滑に引き開けた。
そこには、滝川悠が横たわっていた。見事な鼻提灯を膨らませ、鼾をかいて眠っていた。
「ロベール=フランソワ・ダミアンみてぇにしてやりてぇ……」
唇を捲り上げ、犬歯を剥き出しにし、秀一が言った。まずはお前が八つ裂きになれ、そもそもどうしてついて来た……。相も変わらず空気を読まない悪友に、仁は思わず肝を冷やす。
しかし、そんな心労は徒労に過ぎなかった。仁が覗き見たその背中は、わなわなと震えていた。そしてついに、腰が砕けたかのように、ベッドの傍らに崩れ落ちた。
「無事でよかった――本当によかった」
千尋は、悠の顔を、その両腕でもって抱き締めた。そのぬくもりを、ひしと身に染み込ませるようにして。表情は見て取れないが、そんなもの、わざわざ見るまでもないだろう。
「喜ぶのは、まだ早いんじゃないかしら?」
が、そんな暖かな光景に氷水を垂らすようにして、横合いから、あの養護教諭が声をかけた。毛髪を抜かれたように、千尋の後頭部がぴくりと跳ねる。養護教諭は、そこを弱点として認識したかのように、氷雨のような言葉を降り注がす。
「滝川さんは、購買部近くのトイレで、壁の下に蹲り意識を失っていた。あなたを呼びに行った生徒から聞いていますよね? 先程滝川さんの意識が戻ったので訊いてみたところ、頭を壁に打ち付けたと言っていました。頭を打ったんです。きちんと病院で診てもらうことが適切でしょう?」
仁はその無表情を睨み付ける。やたらと疑問形で締め括り、相手の失態を暴き出しながら、自分の優秀さをアピールして、優越感を堪能する。そんなかまくらの中で優雅にワイングラスを傾けているような態度が、やはり無性に神経を逆撫でる。言っていることは正論なのだが、言い方が適切ではない。こういう奴が医者だったら、『末期癌です。余命は一年程。時間の有効活用を』などと、至極冷淡に告げるだろう。『リアリストな私、超クール』そんな酒臭いげっぷが、今にも臭ってきそうだった。不快を感じたのは、仁だけでない。秀一は鼻であしらい、千尋は背中を鉄の盾のように固くした。周囲を取り巻く敵意も、こういう人種にとっては、快感でしかないのだろう。養護教諭は、ブラボーに全身を愛撫される指揮者のように目を閉じて、そんな勝者の顔を十二分に披露してから、白衣の裾を颯爽と翻し、保健室から出て行った。擁護の余地なき養護教諭。愛車のボルボのボンネットに、十円玉で免職を求める嘆願を刻んでやろうかと、大人になりたい子供みたいな報復を画策し、仁は鼻息を荒くする。




