2-19
「昨日の夜――通り魔は標的を誤ったようね。ここにロリコンレイパー以上の、極悪人がいるっていうのにさ」
そんな千尋の言葉に、思わず仁は呻きを上げた。その胸に、切り開かれたような痛みが走る。しかしながら、遅ればせながら麻酔が効いてきたかのように、感覚を失ったその上半身が、机の上に落下する。いっそのこと、全身麻酔にしてほしかった。
だがしかし、そんな麻酔も不完全らしかった――
胸の中に、小さな小さな痛みがあった――
それでもその痛みは、鼓動の度に迫って来る。自分が心臓そのものになったかのように、その痛みの正体が見えて来る――
それは――執刀医が見落とした針だった。
包みの解かれていない弁当箱……包み……黒地に雪模様のバンダナ――バンダナ。今思えば、どうして気が付かなかったのかと、自分の正気を疑った。剣道に臨むとき、つまりは剣を取るとき、千尋は、その長い髪を束ねていた――あのオーダーメードの、山椒が彩なす、真っ赤な真っ赤なバンダナで。
それに、どうして知っている――どうしてカウントしている。大龍寺で額から血を流して倒れていたあの男は、世間的には、極悪非道なロリコンレイパーとしてよりも、ごくごく飲んでしまった酔っ払いとして見做されている。彼を失神に至らしめたのは、通り魔ではなく、彼自身であると見做されている。警察や救急隊が、隠蔽工作をしたからだ。連中に目隠しをされなかった人間は、限られているだろう。自分の知る限り、自分自身を加えても、三人しかそれはいない。相沢仁、橘理奈、そして誰より――通り魔自身。通り魔が、最新の自分の犯行を、カウントできないはずはない。
ストーブから立ち昇る熱が、景色をぐにゃりと歪ませる。が、その中にあっても、ストーブの輪郭だけは、くっきりと直立していた。胸中の針には、毒が仕込まれていたのだろうか。ついに突き刺された心臓は、痛みを寒気に変えて送り出す。全身に、青い流血が満ち満ちる。
通り魔は……通り魔は……
『通り魔は――山野井千尋さんである可能性が高いです』
理奈が耳元で言い放つ。
うるさい……うるせぇ――うっせぇっ! 仁は、群がる蠅を払うように、頭を左右に振り回す。傍から見れば、机に突っ伏したままそんなことをする彼は、額の脂を机に擦る、不潔な奴にも見えただろう。しかし彼は、どこまでも潔癖だった――
千尋は、通り魔なんかじゃない!
千尋が、通り魔であってなるものか――っ!!
バンダナもカウントも、『遺留品』も『秘密の暴露』も、きっと何かの間違いだ――っ!
だがしかし、いくら振り回しても、その闖入者は居座り続ける。それどころか、木刀に真っ赤な真っ赤な舌を滑らせて、垂れ下がった長い黒髪を掻き上げて、その凶悪な面相を見せ付ける。顔を上げれば、瞳にまで焼き付くのではないかと怯臆し、そこにいる彼女の顔を、最早見ることができなかった。仁は、凍える身体を、両腕でもって温め庇う。
しかし、震えを和らげる暇もなく――教室後方の扉が勢いよく開かれた。千尋と仲のいい女子生徒が、息も絶え絶えに立っている。そして彼女は、撒き散らすようにこう告げた。
「千尋――悠が大変なの!」




