2-16
少し時間を巻き戻し時刻は正午、場所は平馬高校の生物室。待ちに待ったチャイムを合図に、相沢仁は、椅子の上で伸びをして、前に曲がって固まっていた身体を矯正した。メンデルの法則だとか表現型だとか、はたまた染色体だとか三点交雑だとか、そんなもの、自分の人生において入試以外で使う機会が果たしてあるのだろうかと、近視のライフプランナーはそう思う。
教科書・ノート・資料集を小脇に挟んで席を立つ。そこでふと、教壇前の光景が、目の隅を掠めた。ショウジョウバエの異名を持つ教師が、その羽音の如き声でもって、誰某を説教している。怒られているのは何者か。ほんのり湧いた興味から、首を横に倒して、教師の背に隠れて見えないその生徒を覗き見る。しかし興味は、一瞬にして干上がった。いつも通りの光景が、そこにはある。新鮮さの雫もなく、むしろ蛆が顔を出した乾物みたいな、笑味も遠慮したくなるイベントが、そこにはある。怒られていたのは、滝川悠。その奇行故に、平馬高校のみならず、加護江市全体にその名を轟かせる、生物兵器よろしくの変人だ。そんな彼女は、先の授業中もハブのホルマリン漬けを開栓し、中の水溶液を飲もうと試みた。『ハブ酒があるよ』と、丸眼鏡の奥の瞳を輝かせていた。相変わらずの馬鹿者だ。蟒蛇のキャバ嬢にでもなるつもりか。無論その前に死ぬだろう。それならそれで、あの変人こそ、貴重な標本としてホルマリン漬けにするべきなのだ。仁は冷笑を禁じ得ない。悠の隣には千尋がいて、お茶目が過ぎた友人に代わって、教師に頭を下げている。171センチと145センチ、その身長差も相まって、千尋が共働きの両親に代わって妹の世話を負うはめになった可哀想な姉に見えてくる。そんな姉の苦労など露知らず、悪戯好きの妹は、エヘエヘエヘエヘエヘエヘと、その口元に、反省の色とは反対色の色を、ゴッホのように塗りたくっている――これもまた、いつも通りの光景だった。そして、これからも続く光景だろう。しかしきっと、姉は妹を、千尋は悠を、見捨てない。あんな社会不適合者を、見捨てない。
そんな冬に咲いた桜のような光景に、仁は静かに微笑んだ。
『通り魔は――山野井千尋さんである可能性が高いです』昨晩理奈は、そう言った。あのときの、反対を貫き通さなかった自分を、車型のタイムマシンで轢き殺してやりたい。通り魔と山野井千尋の間には、決定的な違いがある。もし千尋が通り魔なら、悪人を掃除するにあたり、気配を絶ち背後から襲い掛かるなどという、姑息で臆病な真似を選ぶはずがない。彼女は、舌を振るうにしても木刀を振るうにしても正面を切る、そんな堂々とした人間だ。それに、掃除をすると言ったって、それこそルンバみたいな真似を考えるはずがない。彼女は、懲らしめた悪人に説教までくれて更生させようとする、そんな人間味溢れる人間だ。そんな彼女に、通り魔のような真似が、正義味方の真似事が、出来るはずがない。彼女こそが正義の味方。本物が偽物になることなどありえない――
山野井千尋が通り魔だなんて――ありえねえ。
雪解けの川面を、燕の影が掠めて行く。胸が、春のように暖かい。仁は、教壇前の千尋の姿を胸に、一人生物室を後にした。




