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バックヤードに着くなり、縦にしたクリップボードで、脳天をシバかれた。視界だけではなく、思考にも火花が散ったが、本心を剝き出しにするような真似はしない。そんな愚行は――柔軟思考の賢者のすることではないからだ。望月は、人生の戦略に従って、蠅の如く揉み手をし、ダンゴ虫の如く声を丸めた。
「何すか店長? 痛いっすよ」
が、わざとらしい媚びなど、相手の神経を逆撫でするだけだ。腕を組んで屹立していた長身の店長は、望月の死にかけの毛根に、更に言葉による打撃を加えた。
「あれほどJANコードを照らし合わせてから品出しをしてくださいと言ったでしょう! 髭剃りの替刃、ぐちゃぐちゃに陳列されていましたよ! いい歳をして、学生アルバイトでもできることをどうしてやろうとしないんですか!?」
うっせぇクソガキ、剃刀の替刃なんざどれも同じじゃねぇか! 望月は、一回りも年下の店長に、アルバイトとしてこき使われるばかりか、どうでもいいミスを論われ、不当に見下されることが気に入らなかった。もっとも、そのように思ってしまうのは、その欠陥だらけの人格故のことである。そんな学生でもわかる現実を、この40過ぎの男の脂肪だらけの脳みそは、柔軟に包み隠していた。それでも彼は、こうして叱責される度、なけなしの髪を振い落とす勢いで、ここぞとばかりに低頭した。それもまた、柔軟思考の賢者様の、人生における戦略だった。
その後店長は、正常な人間が聞けば的を射ている、異常な人間が聞けば的外れな説教を放ち、奥の事務所に戻って行った。当然、異常が正常である望月さんはご立腹。積み上げられた段ボールケースの陰でくすくす笑っているパートのババア共に背中を向け、左手にある階段を上り、あろうことか、休憩室へと入っていく。パイプ椅子にふんぞり返り、持参した水筒からココアを呷る。あのパンピー共は、俺様が何者なのか、全くもってわかっちゃない。熱い演奏を終えたピアニストのように、望月は天井を仰ぎ見る。
俺は――あの橘理奈を、芸能界から追放した賢者だぞ!
「真面目だけが取り柄のクソガキめ、枯れてる癖に花盛り気分のババア共め、今に見ていやがれ――」
望月は、ジーンズのポケットから取り出した物を、天井へと翳した――
異界の指輪――ブラックリング。そこに象られた髑髏は、さながら唾液のように光を垂らし、主が掲げた額の脂をてからせる。
残り4つのリングを集めれば、夢のような夢さえ叶うのだ――俺は金を手に入れる。一生涯、食べて寝て犯りまくれる、それ程の大金を手に入れる。望月は、鼻息だけではなく、鼻汁までをも噴出し、喘ぐような笑い声を撒き散らす。夢のような夢は、夢のない夢。その生き甲斐を訊かれたら、食事・睡眠・風俗通いと即座に答える、そんなワイルドなホモサピエンスがここにいた。その様は、彼にブラックリングを授けた鬼と瓜二つだった。虎髭を蓄え、スーツ姿でありながらウエスタン帽を被り、この世の全てにむしゃぶりつくような哄笑を見せていた、あの鬼に。
「そのためには――まず第一手」
望月は――指輪と天井を掌握し、その拳を固めた。
あまりにも遅い第一手――とうの昔に、全てのブラックリングは人間の世界にもたらされ、所有者同士の争奪戦さえ勃発しているにもかかわらず、この男は、鼾でもって石橋を叩いてばかりいた。スタートダッシュを決めて、橋の中程ぐらいにその身を投げ出すことができたのは、全く以て、神風の仕業と言う他ない。
「今夜が勝負。待っていろ――俺のお姫様」
クソガキの癖に気が強くて生意気で、弱味を握れば脅迫して、肉便器にでもしてやろうと思ったあの女。ボコボコにした男をアスファルトの上に正座させ、腰に手を当て、偉そうに説教していたあの日の姿を思い出し、どれだけアパートの壁をボコッたかわからない。それが今ではどうだろう。今では、ナットの指輪ぐらいならくれてやろうという、祝いの気色さえ湧いてくる。
「くくっ――くくくくくくくくく!」
策士を気取る小汚い笑い声が、休憩室に響き渡る。
その背後では――毘沙門天のような形相の店長が、パイプレンチを担いで立っていた。




