2-11
「まぁ――どうにかなるだろう」
仁は、ハイカードを投げ出すような手振りを添えてそう言った。やはり俺の役はない。レッドデータブックに記載されていそうな昔のお前じゃあるまいし、そんな成長したお前の強さを、俺は誰よりも深く信じている。それに、女の嫉妬は恐ろしいと言うが、剣道部の連中だって、ジョーカーである部のエースをむざむざ捨てるとも思えない。今に顧問も含め、雁首揃えて土下座をしに来るだろう。心配ない、そんなに深刻に悩むことはない。仁は、金八先生になりたがるミーハー教師のように、じんわりと頷いた。
そんな彼を、千尋は黒い瞳でもって見つめていた――まるで、その面の皮を透かすようにして。両手で包んだグラスの底は、結露し溜まった水に浸っていた。
「――そうよね」
そして彼女は、席を立つ。濡れた両手の掌を、見下ろして確認して、水気をプリーツスカートに擦り付けた。結局一切の飲食をしないまま、ダッフルコートとスクールバッグを取って歩き出す。ローファーが、床を二回ノックした。
「ねぇ、仁……」そこで彼女は――一度きり立ち止まった。
「後ろ髪をセットするときは、合わせ鏡で御覧なさい」
一度きりだった――そして彼女は店を出た。美しい後ろ髪を、虚空に引きながら。
そんなに変か……? 仁は、その後ろ姿を見送った後、ワックスで毛先を尖らせた後ろ髪を指で摘まんで弄った。
「ぐび――っ!」
そして舌を噛んだ。脳天に落ちた、目玉が飛び出さんばかりの衝撃は、ややあって、重々しい疼きとなり、滲むように広がった。何すんだテメェ! 振り向き様にそう言ったつもりだったが、鼻息だけが噴出する。理奈が、拳を固め、河豚に当たったかのような表情で、こちらを見下ろし立っていた。その歪められた唇が、喘ぎながらも言葉を零す。
「この、馬鹿…………」
意味不明の悪口だ。鼻でも摘まんで泣かしてやろうかと、仁もまた、眉間に皺を寄せて立ち上がる。
が、理奈は一変、弾かれたように、窓の方へと振り向いた――
そこには、夜の街があった。歩道にはくたびれた人々が、車道にはヘッドライトをギラつかせる車の群れが、それぞれ夜の顔をぶら下げ往来する。しかしながらそれは、窓枠に切り取られれば尚更に、奥行きのないたった一枚の絵画のようだった。それでも食い付くように窓を凝視する理奈に、仁は思わず首を傾げた。何か面白いものでも見えたのか。いやもしかすると、見えてはいけないものが見えたのか。とすれば、かつての演技力は降霊の賜物か。そこまで妄想が至ると、仁は再び窓を見た。そしてそこに、父のアルバムのとある写真を見出した。何の気なしにぽつりと思う――試しに彼女でも呼んでもらおうかと。写真の中の彼女は、『DIY』と読める刺々しいロゴタイプが刺繍されたエプロンを着て、クールな表情で、味噌汁か何かの味見をしながら、薬指に指輪のある左の手の平で、写真の半分を塞いでいた。これもまた何の気なしだが、理奈ならば、霊を降ろそうが降ろすまいが、彼女になれるような気がした。写真の中から、彼女を切り出せるような気がした。
「相沢さん、リングをつけて――聴いてみてください」
すると理奈は、敬語ではあっても、宿題を強いるような口調でもって、そのように指示した。リングをつけて……聴く? 自分の前世、伝説の極道・大葉恭司は、猫の足音さえ聴き取れたというが、霊の声音はどうだろう。数多の危険を聴き分けることで体得した『聴き取り方』ではあるが、果たしてそこまで優秀なものかと訝りながら、仁は、ジャケットのポケットから取り出したリングに指を通し、前世の記憶を浮き上がらせた。
アイシーと――そう思った。
猫のものでも霊のものでもなかったが、甲高い悲鳴が聴き取れた。それは機械の悲鳴――救急車のサイレンだった。まだ遠方にあるのだろう、なるほど普通の聴き方では聴き取れない、とても小さな音の芽だ。「よくリングなしで聞こえたな」「芸能人だったんです、耳も聡くなりますよ」「なるほどな――」
「それで――どう思う? 通り魔か?」
仁は、理奈へと首を巡らせる――エンジンキーを、回すようにして。
「どうでしょう? しかし――可能性は高いかと」
理奈は、仁へと首を巡らせる――サイドミラーを、確かめるようにして。そして、リングを左手薬指に装着した。
「タクシー代わりに救急車を呼ぶ、そんなイカしたVIPの仕業じゃねぇだろうな」
「そうだとしたら、イカれた怪我人にしてやりましょう」
「そんでもって盥回しのうえ、無言で帰宅させてやりゃあいい」
サイレンの音が、近くなって、大きくなる。周囲の客や店員にも聞こえたらしく、彼等は風見鶏のように首を振る。
音の移動が――停止する。
あの方角、この距離は――
「大龍寺」
「走ればすぐだな」
仁は、レジで万札を放り出すと、夜の街へと飛び出した。




