2-10
「剣道部――休部することにしたのよ。無期限でね」
脳みそが、釘付けにされた。仁は、声にならない声を、喉から抜く――
千尋が? 剣道部を? 休部だと――?
信じられなかった。千尋が、今年の春、転校初日に入った剣道部。部員達は、去年大阪で雷名を轟かせた超大型の即戦力の入部に、一様に胸を躍らせた。千尋もまた、平馬高校の剣道部の一員として、個人戦だけではなく、団体戦でもインターハイを制覇するのだと、目を輝かせて意気込んでいたはずだ。あれは見間違いだったのか。ややあって、やっと吐息に、声が乗る。
「千尋、お前……冗談を言うな……」
「冗談だったら、ジョークだったら……どんなにいいか」
それでも千尋は、まるで何かに祈るように、そして何かを守るように、グラスを両手で包み込む。氷は既に、溶けて形をなくしていた。
「最初はみんな歓迎してくれたわ……最初はね。今年の夏、インターハイが終わった途端、みんなの態度が変わったわ。無視をされたり、そうじゃなくても、薄くて柔らかいけどしっかりとした、パラフィルムみたいな隔たりを感じたり」
「失礼ですが、それはやはり、インターハイの結果が原因なんですか?」
理奈が問う。
冗談なのだ、ジョークなのだ、そんな風に弧を描いていた千尋の唇が――真ん中から圧し折られた。自分の口からは言いたくないと言いた気な、口元に浮かぶ『へ』の文字は、甲骨文字のように硬くて鋭い。
インタビュアーだった理奈が、今度はコメンテーターに身を置いた。
「山野井さんが個人戦優勝を成し遂げた一方で、団体戦は、山野井さん以外の方がブレーキとなり、ベスト16に止まったと聞いています。私が思うに――一人だけ武功を上げた山野井さんに嫉妬し、そんな嫌がらせをしたのではないでしょうか」
千尋は、頷くように、俯いた。震える手の内で、ウーロン茶の水鏡が砕けて揺れる。
平馬高校の剣道部は、珍しいことに、女子部員しか存在しない。しかし仁は、ジェントルマンなどでは決してない。千尋以外の女など、究極的に言えば、雌の曲線を持つ人影だ。故に今、剣道部の連中を思い浮かべると、己が腸と同じ目に、ボロ雑巾に変えてやりたいと、歯軋りせずにはいられない。平馬高校の剣道部は、千尋が転校してくるまでは、弱小とまでは言わないが、インターハイに出場できるような強豪ではなかった。そんな連中が、団体戦だけとはいえ、いや団体戦だからこそ、白日の下に出られたのは、やはり千尋の指導のおかげだろう。そして連中が納得できる結果を得られなかったのは、連中の努力不足のせいだろう。ガキの頃は『先生が言ったから』、大人になったら『上司が命じたから』、犯罪者になっても『悪魔が囁いたから』。テメェらは、そんなことを言うクチかこの野郎! 体毛が、剣山のように逆立っていく。しかし彼女は、こう言った――
「まぁ最初は、団体戦も優勝と意気込んで指導を買って出たのにもかかわらず、成果を挙げられなかった私の貧弱さ故のことだと思っていたけど、だからこそこれは罰だと耐えることもできたけど、7日付けで、休部届けを提出したわ。胴着や小手に画鋲を入れられたり、竹刀を折られたり……身も心も持たなかった。部活の代わりはいくらでも見つかるわ。それでもね――部活のみんなの代わりは見つからない」
自分の胸の内を見てくれる人間がいたことに安堵したのか、千尋は、砂山が崩れるように語った。グラスの表面を伝い落ちる雫を、覚束ない瞳でもって追いながら。
そんな風であっても――山野井千尋は強いと思った。相沢仁は、そう思った。夏に始まり秋を越えて冬に至るまで、彼女はいじめを受けていることなど小息にも出さなかった。まるで、流れ着いた無人島の砂浜で、SOSの狼煙を上げることもなく、残酷なほど穏やかに広がる海原を睥睨するかのよう。それを思えば、今こうして弱音を吐いている姿も、到来した嵐の哄笑を呑み込まんと、雄叫びを張り上げているように見えてくる。ロビンソン・クルーソーなど目ではない。彼女はきっと生還する。




