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「振られちゃったみたいね」
無人のはずの隣のテーブルから――そんな声がした。
仁も理奈も、平手を食らったかのように、顔をそちらへ振り向ける。
黒いセーラー服に黒いロングヘアー。頬杖をつきながら、横目にこちらを引っ掻ける。疑惑の渦中のその人物――山野井千尋が、そこにいた。
「お気の毒様。でも今のあなたじゃ、当然よね」
千尋は引っ切るように、広げたメニュー、アルコールメニューのメージへ眼を払う。
ぶっ壊れたDVDドライブのように、口の開閉を繰り返す仁だったが、やっとのことで、彼女という存在を呑み込んだ。
「いつから……そこに…?」
「『つまんねぇこと、言ってんな……』」
ICレコーダーが音声を再生するように、千尋は答えた。そしてオーダーコールのボタンを押し、店員を呼び、ドリンクバーを頼み、「以上で」。客が増えてくる夕飯時に、なんて傍迷惑な……。仁はそう思ったが、空気を炙るような彼女という情景を前に、怖気を震うことしかできなかった。そのステータス異常は、席を離れた彼女がグラスにウーロン茶を注いで戻って来るまで持続した。
「何をしに……ここに……?」
「一杯飲みに。急に食欲が失せたから」
フリーバッティングのような会話だった。そして打たれた白球は、投手の胸に突き刺さる。マウンドもといテーブルへと、仁はずるりと崩れ落ちる。
そんなフリーとは言い難い雰囲気にいたたまれなくなったのか、
「お久しぶりです、山野井さん」
理奈が割って入った。千尋は理奈を見る。しかしそれは一瞬間のことで、やはりそっけなく、「そうね」とだけ返事を放った。
何だお前ら、知り合いだったのか……。仁は、二人を交互にきょろきょろ見遣る。まるで、言いたいことも言えない家庭で育った子供のよう。そんな彼を、理奈が見つめた。
「『現代に蘇る宮本武蔵 インターハイに踊る鬼才』――かつて、山野井さんを特集したドキュメンタリー番組の再現ドラマで、山野井さん役を演じさせていただいたんです」
「鬼に衣よね。理奈ちゃんみたいな美人が私役だなんて」
「恐縮です」
それでも仁は、結局置き去り、蚊帳の外。理奈がこちらを見ていたが、ちくちくちくちく、顔を刺されている気がしてならない。
しかしやはり、千尋にとっては――彼こそ叩いて潰すべき害虫のようだった。睨み付けて脚を組み、手中のグラスの氷を凛と鳴らす。マフィアの女幹部か、そのグラスの琥珀色の液体はウィスキーじゃあるまいな……。今にも懐からピストルを抜きそうな雰囲気が、壁となって迫って来て、仁は座った椅子ごと後ずさる。ブラックリングをつけておくべきだったと後悔した。何者にも何事にも臆さない伝説の極道の記憶を顕在化させていれば、この修羅場を掻い潜ろうとする度胸も手段も、温泉の如く湧いて出ただろう。自分の前世とはいえ他力本願で、ビビることしかできないそのザマは、ノージャイアンでノーライフなスネ夫くんのようだった。
「青春してくれるじゃない。こっちは暦通り、青くなる冬だっていうのにさ……」
千尋は、結局口をつけなかったグラスを、静かに置いた。
そして訪れる沈黙――。
痛い、寒い、青どころか白になる……。仁は、理奈に視線でもって縋ってみたが、彼女は目を伏せた千尋の表情を、神経衰弱でもやっているかのように、一心不乱に観察していた。使えねえ僕だと、奥歯をじりじり擦り合わせる。そして仕方なく、半ばやっつける気分で――千尋に尋ねた。
「何か……あったのか?」
千尋の肩が――小さく跳ねた。
ハンバーグとデミグラスソースが焼ける匂い。
おしぼりで顔を拭く中年男性。
食器が砕ける――甲高い音。




