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胸の中に生まれた重く硬いものが、それでも風船のように膨張し、それに押しやられ、身体中の穴という穴から、意識が空気中へと抜け出て行く。自分を取り戻すようにして、大きく大きく息を吸い込む。そして――
「っざけんなテメェ――っ!!」
相沢仁は――咆哮を放散した。空気という空気が弾き飛ばされ、空間が、真空となってしまいそうな程。
椅子を蹴って立ち上がった彼に、理奈は上目遣いで目を掛けた。
「……座ってください」
「大体通り魔とリングに何の関係があるっ!?」
しかし、焼け石に水だった。むしろ、火に油だった。仁は火災に見舞われた家屋の如く、目から口から鼻から、抑え切れない怒りをのたくらせる。
山野井千尋を――汚された!
最愛の女を――汚された!
俺を含め、誰の面に泥を塗りたくろうと勝手だが――千尋にだけは断じて許さんっ!!
今にも喉笛に食らいつかんばかりの剣幕に、理奈はテーブルの下に逃げ込みたそうに、その顔を力なく俯けた。だがしかし――
「座りなさい――」
鋭く重い眼差しが――一瞬間に起こされた。仁は、脳天へ拳骨を落されたかのように、がくんと身体を震わせた。周囲の視線が、集まっていた。それさえも救いだった。口を尖らせながらも、鼻で息をつきながらも、萎むように着席する。
理奈はカプチーノを飲み、カップを左手のソーサーに戻し、そのソーサーをテーブルの上へと静かに置いた。席の空気が入れ替わる。そして再開し、続行した。
「いかに山野井さんが凄腕の剣客であっても、所詮は女性。気配を殺して背後をとり、一撃のもとに大の男を失神させる。相手の気が抜けていたからと言ったって、そんな展開は、少々ご都合主義が過ぎるというものです。ですが、ブラックリングによって、凄腕の剣客が、超凄腕の剣客に押し上げられたと考えれば合点がいきます。ブラックリングは、夢を叶える指輪であると同時に――前世の記憶を顕在化させる指輪でもあるのですから」
「おい橘、ちょっと待て。合点なんかいくものか。リングを使えば、元女優が爆弾魔になれたように、たとえば、マハトマ・ガンディーがテッド・バンディになることだってありえるんだぞ。そりゃあ千尋は、インターハイ個人二連覇を成し遂げる程の剣客だが、それを拠り所に、あいつをリング所有者で通り魔だと決めつけるのは、それこそご都合主義ってものだろう」
仁は堪らず思わず、口を出す。しかし理奈は、流暢に話を続けた。
「私にリングを授けた鬼が言っていました――前世の記憶は、遺伝子と同様に、生まれ変わりである人間の個人性、つまり性格・体格・才能などに、陰ながら影響を及ぼすことがあるのだと。ベレー帽に軍服、サングラスに葉巻と、いかにもきな臭い格好をしている癖に、いやに紳士的な、そんな胡散臭い鬼さんでしたがね。しかし、その情報は本当のようです。伝説の極道・大葉恭司を前世に持つ相沢さんが、同じく逞しい肉体を持っていることもまた、それを物語っているでしょう」
随分気が利く鬼さんだな、お兄さんの間違いじゃねぇのか。俺のところにきた鬼は、そんな新説、欠片も教えてはくれなかった。全くもって親切じゃない。これは差別だ。鬼さんこちら、ガラケーの取り扱い説明書なのですが、見習いやがれこん畜生。仁は歯噛みし、鼻を横に放り出すように振り鳴らす。
理奈がスプーンでもって、カップの中を掻き混ぜる。
「彼女に前世の才能の一角が現れているのだとしたら、その前世は――超凄腕の剣客だった、そう考えることができるでしょう。ブラックリングを使うことで、前世の記憶が蘇った。その剣術の才能が、押し上げられた。テニスやバスケの才能を持つ人物に目を向けるよりかは、氷山発見の可能性が高いと思うのですが、どうでしょう?」
理奈は、敏腕なる航海士のように言いながらも、航路ではなく船長を、スプーンでもって指し示す。
スプーンの皿に映った自分の顔は、醜い程に歪んでいた。仁の頭の中は、それこそあのカップの中のカプチーノのように、ぐるぐると掻き混ぜられていた。いや、掻き乱されていると言った方が適切か。なぜならば、掻き混ぜることが敵わない、ただただ純粋な、ブラックコーヒーなのだから。どうしようもない。どうしてこの中坊は、こんなにも頭が切れるのか。どうこう言ったところで、どっこい論破される気がして仕方がない。テーブルの向こう側、静かに座り静かに見つめる理奈が、理屈そのものに見えてくる。
故に仁は――目を逸らす。
千尋はリング所有者ではない、ましてや通り魔でなどであるものか――そう信じて、考えることを放棄した。
そうまるで――殉教者のように。
「まぁ、もっとも、相沢さんがペイントボマー事件のときにそうだったように、私もまた、通り魔事件について、証拠のない推測しかできていません。やはり現行犯でも抑えたりしない限り、可能性が高いというだけの話です。棒アイスも、食べて確認するまでは、『あたり』かどうかわからない。『シュレーディンガーのアイス』ですよ」
「つまんねぇこと、言ってんな……」
理奈はあやすように声を丸めてそう言ったが、閉ざされたドアのような仁の口からは、腐った寝息にも似た声がするばかり。
しかし、そのドア越しに、一発の銃弾が撃ち込まれた――




