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「まぁしかし、最近の仁ちゃんの噂を聞くに、迂闊に『モテない野郎』とも呼べねぇかぁ。迂闊だったぜぇ、悪かったぁ。憎いぜこの色男ぉ」
すると秀一が、ワインレッドに染めた髪を掻き上げながら、天ぷらを揚げるような笑い声を弾けさせた。仁は眉尻を跳ねさせる「噂だと?」
「とぼけんなよぉ。先月の中旬ぐらいから、加護江中の女子と、頻繁に飯を食いに行っているそうじゃねぇかぁ。しかもその女子が、あの橘理奈だってんだから驚きだぁ。引退した身とは言え、芸能人と親交を深めるなんざ、仁ちゃんも立派になったもんだぜぇオイ」
秀一は言った。まるでお手を覚えた愛犬を褒めそやすような口振りで。
世間とは、一つの大きなファインダー。理奈の元芸能人であるという自覚のなさに、仁は思わず、重たくなる頭を抱え込む。常時交番に写真が貼り出されていそうな顔をバイオレンスのモニュメントみたいな図体の頂点に掲げている男もまた、十二分に目立つはずなのだが、そんな見解は、頭の重量に加算されてはいなかった。
だがふいに、頭が風船のように浮き上がる―
「まさか……千尋も、そのことを?」
「あたりきしゃりきのこんこんちきよぉ。壁に耳あり障子に目あり、んでもって、人の口に戸は立てらんねぇ」
そしてずばんと破裂し、べしゃりと机の上に落下した。何も考えられない。空気と化していた脳みそは、2016年のオリンピック開催地にでも飛んで行ってしまったらしい。
「噂をすれば影、ユアハニーのお出ましだぜぇ」
しかし次の瞬間には、やはり風船のように、もといスーパーボールのように、仁はその頭を跳ね上げた。山野井千尋が――黒板側の扉から、教室の中へと入って来た。そのまま彼女は、ストーブを囲む友人等の輪に加わった。耳を象さんにしてみても、彼女達の会話は聞き取れない。『千尋聞いた?』『何を?』『相沢くん、あの橘理奈とラブラブらしいよ』『ああうん、知ってるわ。でももう言わないで――斬り落としたくなっちゃうから』そんな会話をしていたらどうしよう……。仁は催したように震え上がる。せめて一思いに、首を斬り落としてもらいたい……。
「楽しそうだな……」
ふと秀一が、そんなことを呟いた。やたらと胸の傷に染み入る、そんな消毒液みたいな言葉と声音に、仁は堪らず肩を竦ませる。
「どうせ、俺と一緒にいるときより楽しそうだとか、そんなことでも言いたいんだろう?」
「ああん? んだよ面倒くせぇ野郎だな。自意識過剰って言葉を知ってっか?」
『オオカミ少年』って寓話を知ってっか? 仁は非難の視線を送ったが、秀一は、蠅を払うように手を振った。
「山野井じゃねぇ――滝川が、だよ」
「ああ」と、仁は喉を鳴らした。ストーブを囲む面々の中の、おかっぱ丸眼鏡に視線を投げる。かつてはクラス中から嫌厭されていた滝川悠だったが、千尋が彼女に対するいじめを粉砕してからは、打って変わって人気者になっていた。元々男子連中の中には、肌が青白く華奢で小柄な病弱属性を持っていそうないじめられっ子が、それでも無邪気に明るく笑っているものだから、そんな彼女に好意を寄せている者が少なからずいた。それでも彼女を嫌厭していたのは、嫌厭している風を装っていたのは、嫉妬心から彼女を目の敵にする大勢の女子に対するメンツのためだった。そんな女子連中が、千尋の説教によって氷の態度を砕かれた今、モテるうえに2年3組の首領たる千尋に妹のように可愛がられている彼女が、クラス内のカースト上位に食い込むのは、自明の理というものだ。
いじめはなくなった――
どうにかなった――
俺の思った通りだろう――仁は、磨き上げた鏡のような笑みを満面に広げた。




