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「『携帯爆薬庫』――私の、『進化形能力』のお名前です」
進化形能力――仁は、ギャル語を耳にしたおっさんのように眉を顰めた。
「ブラックリングは所有者に、二つの能力を用意しています。一つ目が、前世の記憶の顕在化により格闘術等の当時の特技を再興させる『基本形能力』。そして二つ目が、基本形能力、つまりは人間様の力を遥かに凌駕した、異界の指輪と呼ばれるに相応しい強大な力を新興させる――それこそが『進化形能力』です」
あのターゲットマークが、あの落書きみたいな爆弾が、異界の力だと言われれば、その異形を見てしまった以上、納得するしか術はない。しかし、納得できないこともある。ブラックリングに、そんなマニュアル車みたいな機能があるとは聞いていない。あのクソ鬼め、そういうことは、マニュアルでもよこして説明しろ。タダより高いものはないのだが、それでも仁は、クレーマーみたいに憤る。
そんな泥塗れで蠢くミミズを、理奈は炙った氷のような目付きでもって睥睨する。
「進化形能力を発現させた所有者を『開眼』と呼び、基本形能力しか使えない所有者を『盲目』と呼びます。盲目が開眼にガンをくれるなど、相沢さんごときがこの私に挑むなど、当たり具材のない闇鍋をやるようなものなんです。まぁ、覚醒のための条件は、開眼である私にもわかりませんし、もしかしたら運任せなのかもしれません。けれど、運も実力のうちでしょう。私に運を引き寄せる器量があったのです。文句を言われる筋合いがあったとしとしても、結局のところ、筋立ては少しも変わりません」
その黒き髑髏もまた、双眸を爛々と輝かせ、こちらを嘲笑っているようだった。
腐ったとはいえ、奴は成功した人間だ。そんな人間が言いがちな、自画自賛のための結果論。仁は、これ見よがしに唾を吐き捨てる。それでも彼の黒き髑髏は、静かに双眸を閉じている。
「おっと、長話が過ぎましたね。おやおや、そんなことをしている間に、またもや時間切れですね。ちゃんと周りが見えていますか? 盲目さん」
吐かれた唾さえ受け入れる、そんな大地の包容力を引っ被り、大空に立つ理奈が、わざわざ警告してくれた。
睫毛がちりつく、顔がひりつく、身体が焼けつく――
分厚い炎の包囲網が――もうすぐそこまで迫っていた。
仁は、舌打ちした――
やはり時間稼ぎだったか、厭味ったらしい真似をしやがって……
ちゃんと周りが見えているかだと……
テメェこそ――ちゃんと見てろや開眼野郎!
雄々しい影が――炎に駆けた。
「あぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ―っ!」
影が吸い込まれた先には、一台のリーチフォークリフトが放置されていた。熱せられた鉄の車体に手が焼かれることなどものともせず、腰を落とし、二の腕に力瘤を隆起させ――仁はリーチフォークリフトを持ち上げる。リーチフォークリフトは、立ち乗り用の小型のもので、当然通常のフォークリフトよりは重量がない。そうであっても、普通の人間が持ち上げられるものでも決してない。そんなブツが担ぎ上げられる。その男は化け物のようだった。今や仁は、様相も形相も、まさに鬼のようだった。時間を稼げたのはテメェだけじゃねえ、俺も同じだ、打開策を見出す時間がな。仁は上体を後方へ撓らせ、リーチフォークリフトを、まるで弓矢のように引き絞る――
屋根の上の理奈が、冷たい汗でもって――その表情を取り落とす。
「落ちろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――っ!!」
仁の雄叫びとともに――リーチフォークリフトが飛んでいく。軌道を垂らすことなく一直線に、戯れる炎を貫いて。直撃を受けた屋根の一部が、スレートの飛沫と成り果てる。
奴はどこだ――仁は肩越しに、すぐ後ろに着地する標的を発見した。しかしながら、十全な着地とは言い難く、こちらに背を向け、体勢も右往左往と定まらない。仁は身体を、回転させるように振り向ける。振り向き様――相手の左手を、薬指のブラックリングを上から覆い隠すようにして、がっしり掴むことを忘れずに。山折りになった硝子細工のような手が、砕けんばかりに軋みに軋む。
「捕まえたぜ――どら猫が」
しかして仁は、ほくそ笑む。まるで、動物を器物としてしか扱わない虐待者のように――
これまでの奴の戦闘方法から見て、爆弾を仕掛けるには、リングをつけた左手の平で、対象物に触れるアクションが必要だ。しかし、その左手を拘束した今、それは不可能な戦略だ。そして、同時に覆い隠したリング自体は、リモート式爆弾のリモコンの役目も果たしている。故に、あらかじめ仕込んでおいたリモート式爆弾を爆発させることもまた、不可能な戦略に成り果てた。何より、これだけ仲良小好しの状況で、それに代表されるいかなる爆弾が爆発しようとも、心中の体になるだけだ。仕掛けて、自身の安全を確保して、その上でもって爆発させる。その三挙動を成立させてこそ、爆弾は武器として成立する。爆弾という武器を封じた今、言ってしまえば奴はただの中坊女子。俺を殺し、テメェは生き、勝利を収める戦略は――既に奴の手中にない。
その判断が正しいことは――それこそ半狂乱になった猫のように踠く、変わり果てた理奈の有様の只中に、一目瞭然のことだった。
右手が左手を締め上げる――暗い髑髏が、明るい髑髏を嘲笑う。
仁もまた笑う――
『盲目』、『覚醒』、『開眼』だと――?
目を閉じて眠っていようが――ハッピーな正夢は見れんだろう。
そうして口元に、理奈の顔を身体ごと引き寄せて、海鳴りのような声でこう言った――
「仲良くしっかりこんがりになりたくなかったら――どうにかしろや、キティちゃん」
炎は尚も――迫っていた。
当然仁は、死にたくなかった。そんなこと、冗談じゃなかった。そこで考えた。この策士を脅せば――どうにかこうにかしてくれる。救命用の筏ぐらい、流木ででも残骸ででも、即席で作り上げてくれるだろうと。
あれほど激しく抵抗していた理奈だったが、今や枯れ木の風情を身に纏い、掴まれた左手に、その落ち葉みたいな眼を、ただただ舞い落とすばかりである。ややあって――裸の枝が揺れるようにして、その唇が嘆息を漂わせる。
「お味噌汁みたいに――なかなかどうしてうまくいかないものですね」
「背中をこちらへ向けておけ。ふざけた真似しやがったら、後頭部をカシューナッツみてぇにするからな」
「私は敗者です――従います」
橘理奈の熱狂的な野郎ファンならば、理性が崩壊して野獣になって然るべき、垂涎だくだくものの台詞だった。しかし仁は、山野井千尋一筋であり、こんな餓鬼は趣味ではない。そういうわけで、「さっさとやれ」と解放し、背中を足で小突いてやった。
その消火活動は円滑だった。ペイントボマーならではの爆風消火。ただその消火方法の特性上、廃墟は荒野にグレードアップした。理奈を牛馬の如く使役している間、仁は悪知恵を働かせていた――
ペイントボマーを――配下にしてやろうと。
あいつは中坊にしては頭がキレる。そして俺ほどではないにしろ、なかなかに強い。あいつもむざむざブチのめされたくはないだろうし、互いにメリットがあるだろう。あのリングは、最後に回収すればそれでいい。
第三者から言わせてもらえば、彼にとっては与り知らない領域であった進化形能力について、更なる見聞を得ることこそ、最も優先されるべき事項なのだろうが、盲目でありながら開眼に勝利したこともあり、そんな案件は、この男の頭には持ち上がらなかった。自分こそ最強、今の自分で十二分――そのように、思っていたのだから。
頬を叩く、冷たい感触。雨が、降り出した。雫が――頬を優しく撫でていく。
おせぇよ馬鹿――
仁はそれでも――笑っていた。




