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BLACK RING  作者: 墨川螢
第1章 ペイントボマー事件
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1-34

「逃がすかあ――っ!」

振り上げるは右の拳、人差し指に吼えるは黒き髑髏――仁は、裏拳で壁際のパイプの基部を殴り付けた。パイプが飴のようにぐにゃりと曲がり、繋ぎ目のボルトがポップコーンのように弾け飛ぶ――

 しかしてバランスを崩したどら猫が――パイプもろとも落ちて来た。

「――っち!」

 理奈は、舌打ちとともに着地した。そして上半身を起こすや否や、再び逃走を開始する。

 今度はテメェの尻に火がつく番だ――仁はその背中を猛追する。

「何の警戒もなくおめおめと。本当にかわいい人――」

 一瞬間――おぞましい色彩のデジャブが脳裏を削ぐ。

 駆ける理奈が、大きく左手を振り被る。そしてその手はすれ違い様に、鎮座するフォークリフトの尻を引っ叩く。まるで、後任の後輩を激励するかのよう。その左手、薬指、ブラックリングの髑髏の双眸が――オレンジ色の光を発していた。

 そして仁は、我が目を疑った。そこにあるノンフィクションを、フィクションだと疑った。彼女の前世の身の上などどうでもいいが、やはり予想の通り、爆弾に精通していた人物だった。そんな人物の記憶という知識が創り出した特殊な爆弾は、その落書きのような爆弾は、落書きのようだからこそ、爆発性のインクを用いた特殊なマーカーか何かで、(えが)いて仕掛けるものだと考えていた。だがその爆弾は――彼女が触れたところから、染み出すように現れた。フォークリフトの後部にて、ターゲットマークが産の光を打ち上げる。

 肩越しの横顔。理奈の唇が、犬歯(ブルータル)を剥き出した―

「轢き殺してあげましょう――っ!」

 振り向き様、その左手が振り下ろされる――まるでギタリストが6本の弦をピックで擦って、オーディエンスの魂に火をつけるようにして。薬指の髑髏の輝く双眸が、その光量を跳ね上げる。フォークリフトに仕掛けられたターゲットマークが爆発し、即席のブースターに変貌する。息を吹き返した重量3トンの鋼鉄の猪が、2本の牙を剥き出して、時の流れに追いつかんと、唸りを上げて迫り来る。

「ストップジョーキング――っ!」

 仁は叫び、踵を返し、もと来た方へ脱兎の如く駆け出した。立ち止まることは許されない、横道に逸れることも許されない。それでも眼前には、鉄の扉が立ち塞がる――

 一か八か――踵にフォークが突き刺さろうとしたその瞬間、前方に跳躍しつつ、両腕両脚で身体を庇い丸め込む。そんな殻の中にも、野太い唸りは攻め入った。しかし次の瞬間には、甲高い叫喚に潰される。突破口の開口を、両肘両膝の隙間から覗き見る――二本のフォークが、扉を根元から撥ね飛ばす。空中にて身体を捻る。そうしてリフトの突進を避け切った。しかし受け身を取り損ない、屋外通路のアスファルトに背中を打ち付け、肺を吐き出さんばかりに咳き込んだ。それでも今は、天を仰ぐべき時だろう。命あることに感謝しよう……そんな信心故のことでは断じてない――

「挽き肉になりませんでしたか」

 仰ぐ波型スレート屋根のその上には――天を陰らす、鬼の影があったのだから。

「だったら尚の事、寝ている場合ではありませんね。ハンバーグのタネじゃあるまいし」

 理奈は、口内のキャンディーをバリバリと噛み砕き、残った棒を、唇でもって弄ぶ。

 どういうことだ……。舞い降りた言の葉を捕まえようと、仁は反射的に身を起こす。しかしそれは、異臭を銜む風へと成り変わり、鼻と頭の奥に突き立った。

「タマネギも――腐っていたようですし」

 理奈がそう言い終えるのを待たずして、仁は後方に顔を放り出す。

 転倒したフォークリフト、そのすぐ傍らには――

 急かすような叱るような、そんな音を噴き上げる――裂けた工業用のLPガス容器。

『ガスモレ』の四文字が頭を駆け抜けたがもう遅い。理奈が、ライターで火を灯したキャンディーの棒を、まるで煙草をポイ捨てするように爪弾く。それは、美しい放物線を描き出し――そしてガス容器にキスをした。

 仁は目を閉じ、腕で顔を覆い隠す――

 しかしそれを痛感した――

 腕と瞼を貫通した光で――世界が紅蓮に染まったことを痛感した。轟音と熱風が、そのイメージを焼き付かせる。

「ようこそ――グリルの上へ」

 雹のような声が、炎の五線譜に穴を開けて降って来た。仁は腕を下ろし、顔を、瞳を、その身の外に晒し出す――

 見渡す限りの――火の海だった。風に煽られた炎は、津波のように突き上がり、それでも満ち潮のような緩慢さでもって、風下のこちらへと躙り寄る。

 微笑みと仏頂面が、赤々と染め上げられる。仁は理奈を睨め上げる。同じ風下にあっても立場が違う。あちらは屋上、屋根伝いに逃げられる。しかしこちらは地上、建物が壁となって逃げられない。先程破られた出入り口は、今や拉げた鉄の扉や砕けた壁材に(うず)もれて、我関せずとその口を閉ざしている。同じ風下にあっても――風はあちらに吹いていた。理奈は、まるで網の上のカルビを眺めているかのように、舌舐めずりまでして笑っている。しかし当然、これから美味しく焼き上がる肉に、トングを差し伸べることなどありはしない。きっと、黒焦げになっても差し伸べない。どんなに炎が燃え盛ろうが、氷など落としはしない。彼女が満たそうとするものは、食欲などではなく、それよりも旺盛な嗜虐心なのだから。この上ない高みの見物の体をもって、彼女は紋切型の勝利宣言を口にする「冥土の土産に教えてあげましょう――」


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