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世界を呑む暗闇。しかし駆ける足音は、滞ることなく消え去った。仁は奥歯を軋らせずにはいられなかった。目はまだまだ暗闇に順応しそうにない。しかし、順応したとしてどうなろう。ここはあいつのホームだ。建物の構造だけではなく、棚にある備品やファイルの書類の内容まで、一切合切の情報を把握していたとしても不思議じゃない。むしろ、そう見た方が無難だろう。何を言う、無難でなどあるものか。やがて多難が押し寄せて来るだろう。畜生め……。仁は割れんばかりに、その奥歯を軋らせずにはいられなかった。
すると、『見ること』を忘れかけた瞳の端を――確かな何かが優しく撫でた。縋るように眼を遣れば、それは一条の光であった。両手でもって包み込みたくなるような、そんな温かな光である。仁は吸い込まれるようにして、機械横の事務机の陰を覗き込む。そしてその光の源に、顔色を満遍なくぬくませて、その目を裂けんばかりに打ち開く――
ターゲットマークが――冷たいカウントダウンを叩いていた。
「クソがあああああああああああああああああ――っ!」
解き放たれた夕焼け色の閃光が――夜の闇を駆逐する。
仁が跳ぶのとほぼ同時、鼓膜をつんざく爆音が轟き渡り、建物そのものが大きく跳ねた。コインのように宙を舞った事務机は天井をぶち破り、それがあった床には、小規模ながらもクレーターができていた。蹲り、降り注ぐ屋根の破片から頭を守りながら、仁は思わず冷や汗をかく。目は暗闇に慣れ始めていたが、そんな自覚を噛み締める余裕は許されなかった。汗の雫が頬を伝い、顎の先に珠を膨らせたその瞬間、それは見えない何かに砕かれた。その軌道を追うように、仁は首を背後へ捩じる―
機械の表面に突き刺さる――ダーツの矢。
その翼の部分には、またもやターゲットマークが描かれていた。しかしながらそれは、これまでと仕様を違えていた。中央に数字のない、それこそダーツをプレイしたくなるような、素っぴんのターゲットマークである。一瞬肝を潰した仁だったが、一向に攻めの姿勢を見せないそのマークに、首をじわりと傾ける。何だ不発か……。爆発しなければこんなもの、単なるモッズな落書きだ。思わず口元に笑みが這う。が、そんな彼を笑う口笛のようにして――『ピッ!』と電子音じみた音がした。
「クソッタレがあああああああああああああ―っ!」
リモート式――そのシステムを失念していた自分自身にも罵声を浴びせ掛けながら、仁は爆発を背景に走り出す。それでもしかし、何処にも安全地帯などありはしない。角を曲がる度に、物陰に隠れる度に、ターゲットマークがにこやかに迎えてくれた。今度のブツは、中央に描かれたハートマークから察するに、心拍を感知して爆発するセンサー式爆弾のようだった。爆発との追いかけっこ。今ならかちかち山の狸の気持ちがよくわかる。
「面白いぐらいに、踊ってくれますねえ」
爆発の追撃が不自然に止まったとき――理奈の嫌味な程にしっとりとしたその声が、建物内に反響した。どこだどこだと、仁は注意を乱射する。そんな醜態を、密かに観賞しているのだろう。忍び笑いが、忍ばず響く。
「このまま相沢さんを嬲り殺しにするのは、カップ麺を作るように簡単ですが、それではあまりに味が足りません。そこで胡麻油を一滴落とすようにして――これから出すクイズに正解できれば、一度だけ姿を見せてあげましょう。さぁ、ビッグチャンスの到来です」
こんのクソガキ! 仁は下唇を噛み、手近にあった作業台を叩き壊した。
「早押しではありませんよ」理奈は、とぼけた風で言ってから、朗々と問題を発表した。
「相沢さんもご存知の通り、ブラックリングは所有者の前世の記憶を呼び覚ます力を持っています。では、ここでクエスチョン――ペイントボマーこと、私橘理奈の前世は、一体全体何者だったでしょう? ヒントは、誰かさんが仰っていましたが、マッドサイエンティストではありません。制限時間は30秒。さぁさぁお答えください、誰かさん」
日本全国津々浦々の橘理奈ファンの皆々様、私、相沢仁は、彼女をベコベコにすることをここに誓います。仁が脳内でダイレクトな意味での婦女暴行を企てている間に、十秒近くの時間が、ただ徒に過ぎ去った。しかし、まだ三十秒には程遠い。このビッグチャンス、あるいはアタックチャンスをものにしろ。仁は、腕を組んで唸り出す。諦めたらそこで試合終了だ。
「はい残念、時間切れです」
「まだ15秒くらいしか経ってねえよ!」
顔面にバスケットボールをぶち当てられた気分だった。仁は異議を申し立てたが、
「私はちゃんと数えましたよ。123456と」
「それはただ1から30までを15秒くらいで読み上げただけだろうが!」
「人気のラーメン屋さんの行列に、1時間並んでみてください。まるで1年ぐらいに感じます。ところがいざ食べ始めると、1秒ぐらいにしか感じません」
「相対性を惰眠の枕にするんじゃねえ!」
アインシュタインが、ベロを出したうえ中指を立てている。「マッドサイエンティストではありません――」悶絶する仁をシカトし、理奈はその解答を発表する。
「ホセ・クルース――50年代のキューバにてフルヘンシオ・バティスタ政権打倒を目指した、『アサシンボマー』の異名をとる、一匹狼のゲリラです。と言っても、フィデルカストロ率いる反乱軍の一員となり、キューバ革命を成功させ、その後も反乱軍の中で邂逅したチェ・ゲバラに惚れ込み、文字通り生涯を彼に捧げることになりましたが。アンデス山脈チューロ渓谷の戦いでの、武蔵坊弁慶を彷彿とさせる立ち往生は、見事と言うほかありません。残念ながら、義経を救うことは叶いませんでしたがね」
どうでもいい、ものすごくどうでもいい。ゲリラだろうがテロリストだろうがサイエンスティストだろうが、どんなマニフェストがあろうとも、爆弾を振り翳せばどいつもこいつもボマーである。ペイントボマーの前世となれる人間は、星空にも見えない屑星ほどもいるだろう。何だこの難問は。何がビッグチャンスの到来だ。宝くじの謳い文句じゃあるまいし。象さんジョウロ一つでも砂漠を森に変えられる、そんな卒業式の演台で自分に酔った校長が宣いそうな与太話を、聞くともなく聞いているかのように、仁の視線は、勝手気ままに遊泳する。だが、その針路が、ある一点に吸い寄せられた。直線距離にして五十メートル程――
あのオレンジの光が――さながら森に潜む山猫の瞳のように、隣り合って光っていた。
「そこかああああああああああああああああああああああ――っ!」
向こう見ず――それがまだ見ぬ種類の爆弾だとは思いもせず、仁は鉄砲玉のように突撃した。しかし彼は運がいい。存外、高額当選も夢ではないのかもしれない。いずれにせよ、その行動が吉と出た。髪を靡かせる少女の影が、カンカンカンと、足音を軽快に跳ねさせて、頭上のパイプの上を駆けて行く。




