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店を出ると、いつの間に手配したのか、タクシーが一台待っていた。既に理奈は、後部座席に乗り込んでおり、仁の姿を見つけると、泣きじゃくる迷子を呼ぶように、柔らかい手招きをして見せる。本当に、泣きたい気分だった。だがしかし、ブラックリングのため、延いては恋愛成就のため、不承不承ながらも、仁は同乗することにした。
シートに身を凭せかけると、タクシーが走り出した。後続車に煽られているわけでもないのに、運転手が頻りにルームミラーを気にしているのは、やはり理奈のせいだろう。これが普通の反応だ。仁は、隣に座る少女を拝む。彼女は、普通の女の子になど、普通の人間になど――戻れない。いつまでも、画面の向こうの異世界人なのだ。そんなことを思い知らされる視線に気付いているからだろうか、窓の外を流れて行く景色を見送る理奈の横顔は、店員と談笑していたときとは打って変わり、消灯したテレビ画面のように、やけに寂し気な色だった。
「私……デートって初めてです」
「ぶっ!」
藪から棒に、理奈が呟いた。仁は思わず吹き出し、運転手も音高く車を蛇行させた。窓枠に頬杖をついたままの彼女に、ドアガラスに打ち付けた額を摩りながらも仁は言う。
「知らないとでも思っているのか。お前が引退に追い込まれた原因は、恋人とのデートをすっぱ抜かれたからだろう。自分から抱き付いてキスをするような肉食系が、今更清純派を演じるな」
当時の週刊誌やワイドショーの乱痴気騒ぎを思い出す。巷の話題が一色に染まり、当時のクラス担任が、傷心旅行ならぬ焼身旅行に出てしまったくらいだ(未遂に終わったが)。今思えば、スキャンダルの口火は週刊トゥルースの記事だった。やはり、彼女を芸能界から吹き飛ばした爆弾を仕掛けたのは、週刊トゥルース編集部、そして徳江洋行なのだろう。しかしながらその報復として、本物の爆弾をプレゼントされ、この人間界から吹き飛ばされてしまったわけなのだが。
仁の辛辣な言葉に、理奈はしばしやはり、窓の外を眺めていた。
「……そうですね」
返ってきたのは、噛み締めるような肯定だった。そうだ、それでいい。自分の未熟さをしっかり恥じろ。それがプロの、プロだった者の責任だ。振り回されっ放しの鬱憤を晴らした仁は、ハラスメントが仕事の社長みたいに、仰々しく鼻息を振り回す。
気付けばタクシーは、特に見知った道を走っており、行き着いた先は、家の近くのコンビニだった。こんなところに、焼き鳥が美味しい惣菜屋などありはしない。客への注文が多いクソ不味いラーメン屋があるだけだ。どういうことなのかと、仁は思わず言葉を投げる。しかし、すっかり御機嫌を損ねてしまったらしい理奈様は、口を閉ざしたまま料金を支払い、タクシーを降りると、すたすた一人で歩き出してしまった。酷使されるマネージャーのように嘆息し、仁はその背中の後を追う。
10分程歩き続け、工業地帯に踏み入った。左手には、大手飲料メーカーの工場が見えている。昼間かと見紛うほどの明かりを放ち、昼間と同じように稼働している。当然交代制なのだろうが、あの巨大なオルゴールの中で、歯車として回転し、悲鳴の音色を奏でている人々を想像する。そんな彼等に自分自身を発見し、憂鬱は大きく実りを結ぶ。更には、マウンテンバイクを病院に置き去りにしていたことに気が付いて、憂鬱が弾けて絶望が顔を出す。樹海があったら入りたい……。首を吊ったように俯く仁。そんな彼を誘うかのように、死霊の呻きが、その足元を震わせた。それは、金属が擦れる音だった。理奈が――前方の工場へと続く門を、引き開けていた。
「ここは……」
仁は、その工場を仰ぎ見る。栄睦化成工業株式会社――主に自動車内装品を製造販売していたが、リーマン・ショックの餌食となった零細企業。当然今や工場は稼働しておらず、それどころか、不良と浮浪が出入りする廃墟となっている。こうして夜の闇の中で見てみると、日中でさえ感じる不気味さも倍増するというもので、地底より這い出た巨大な魔物にさえ見えてくる。その腹の中へ、わざわざ身を落とす奴等の気が知れない。まるで自宅に帰って来たかのように敷居を跨ぐ理奈に、仁は思わず手を伸ばしたが、その指先が袖にあしらわれただけだった。ブラックリングのためじゃないか。理奈の背中を追いながら、自分を追い込んではみたものの、周囲の微かな物音にさえもビクつき、一気に老い込まれてしまいそうだった。アスファルトの割れ目から雑草が覗く駐車場を抜け、明かりの失せた古びた自動販売機と、錆の浮いた工業用LPガス容器を、それぞれ横目に通り過ぎる。
ふいに理奈の足が止まり、その爪先が、右側へと向けられた。仁もそちらへ首を捩じる。巨大で重厚な鉄扉が、途端に視界を覆い尽くす。扉の上方には、『真空成形工程』と書かれた看板が、ぶらりかたんと、そよ風の中に揺れている。理奈が、その扉を引き開ける。立てつけが悪いらしく、終いには蹴りを入れてこじ開けた。建物の内部は暗く、入口の周辺こそ隣接する工場からの明かりが微かに届いていたが、それより先は、まるで黒く厳めしい壁が立ちはだかっているかのように、人の視線を拒絶していた。仁は、床に転がる酒瓶を、ちょいと爪先で蹴飛ばした。闇雲に進めば、きっと躓いてしまうだろう。そんな仁の憂慮を汲むように、理奈はヴィヴィアン・ウエストウッドのライターでもって火を起こし、二人の行く手を照らし出す。その姿は、宝を求め洞窟に挑む冒険家のようだった。しかしその光量は、再び歩き始めた彼女の足取りとは違い、どうにも頼りないものだった。そんな中で、周囲の姿が、さながら亡霊の如く浮かび出る。積み上げられた塩化ビニールの大きな巻物、埃で茶色くなったホワイトボード、そして『2号真空成形機』とある、奥に長く横たわる、巨人族の機織り機にも見えるそんな機械。どうやら同じような幾つもの機械が、細い通路を隔て、見渡す限りを塞がんばかりに整然と横一列に並んでいるらしく、スチームパンクの世界に迷い込んだ気分にもなってくる。こういうレトロな雰囲気も悪くはない、そのように仁は思う。しかし、彼がその種の趣に目覚めたわけでは決してない。この場で愛を囁き合う俺と千尋は、相対的にモダンに映り、それこそあのライターの炎のように、いやいやそれどころか星のように、宇宙の闇さえも裂く一等輝かしい存在になるだろう。この男は、独り身でありながら、そんなバカップルみたいなことを考えていた。ナマズよろしく口を開け放ち、涎をぼとぼと滴り落とす。その胸に、熟練の板前がしなやかに包丁を入れるようにして――
「電気、止めているんです」
理奈が、背中を向けたままそう言った。
謎の発言に、仁は思わず面食らう。そして胸の中に、その違和感が滲み出る。二つになった心臓がずれるような――そんな痛みのある違和感が。
前を行く可憐な背中は、スイッチが入ったように続けて喋る。
「バトル漫画ではありがちですよね、先に病院で交わしたようなやり取りが。『場所を変えよう』『好きにしろ』。そして提案した方が案内する先は、大抵人のいない荒野とか空き地とか。そんなシーンを見る度に、私どうしても思っちゃうんです――勝手知ったる場所を選べばいいのに、地の利を活かせばいいのに、もっとクレバーになればいいのに、と」
後頭部に――鈍器で殴られたような衝撃が落ちて来た。いかなリスクマネージメントのなっていない仁と言えど、ここまでヒントをサービスされればバッチリわかる。思えば、ヤンキーやホームレスの姿が見当たらない。ありもしない後頭部の傷口から、背筋にありもしない血が伝っていく――
ここは理奈の、ペイントボマーの――隠れ家だ!
そして地の利を得た、クレバーな爆弾魔は――
「敵の背中を押さえていながらおめおめと。かわいい人――可愛がってあげましょう」
その冷酷な笑みを掠めたが最期――ライターの灯りを消し去った。




