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この一年、忘れるようにと努めて来た。しかしそれは、無駄な努力と言うもので、ふとした瞬間に思い出される思い出は、それをおいて他にはない。しかも今宵は、聞くともなく聞いているジャズの眠い旋律が、退行催眠の足を速めていた。今の自分は、背水の陣である。恐怖に駆られた相沢仁は、カフェインを身体に叩き込まんと、砂糖とミルクを入れに入れたカフェラテを、ぐいと一気に飲み干した。しかしその一杯は、気付けになどなりはしなかった。目が覚めようと夢から醒めようと、どのみち活路はありはしなかった。背にも、そして腹にも、激流が飛沫を上げていた。中州に取り残された惨めな男。贔屓にしている都内への玄関口となっている高架駅内の喫茶店にて、甘ったるく乳臭いため息を吐き出した。
「ま~た愛しい幼馴染のことを考えてんのかよぉ」
テーブルの向こうから、岡島秀一が、渓流を覗き込む釣り師の竿先のような口調でもって、そう言った。勝手に決めつけんな……仁は強かに舌を打つ。しかしながらその音は、岩魚の跳ね音に他ならない。秀一は、端整な顔をシニカルに歪めると、サングラスの中の目を細めて見せた。
「まぁ、そんな仁ちゃんこそが、愛しいんだがよぉ」
「キモいことをほざいてんじゃねえっ!」
仁は、テーブルに拳を叩き付けた。近くのテーブルで新聞を読んでいたサラリーマンが、椅子ごと尻を蹴り上げられたかのように、退避のための起立をする。しかし秀一は、悪びれることもなく、それどころか、ワインレッドに染めた髪を大仰に掻き上げると、組んだ脚をテーブルの上にどかりと落とす。
「見え見えなんだよ、馬~鹿。見て呉れは極道みてぇな癖に、相変わらず女々しい野郎だぜぇ」
反論が、できなかった。仁は、190センチに届かんばかりの筋骨隆々の肉体を、小さく薄く折り畳む。しかし、そんな体であっても、不退転を胸に、虎の目で睨み、龍の声で唸りを上げた。しかししかし、どんなに凶猛であっても、彼は人間、下手をすれば猿である。普段回しているエテ公ごときに、怖気を震う秀一ではなく、はだけた黒の学ランの懐から、銀のジッポライターとセブンスターのソフトパックを取り出すと、呼吸をするかのような流儀でもって、煙草を咥えて火をつけた。店内は全面禁煙、そして勿論、未成年者の喫煙は法律で禁止されている。案の定、坊主頭のアルバイト店員が顔を顰め、躓きそうな早足でもって迫って来た。が、注意を受けたのは彼の方だった。店長が彼の首根っこを引っ掴み、『STAFF ONLY』の事務所へと拐かす。何か弱みでも握られているんだろう。仁は、驚くこともなく了解した。秀一は、こんなヤンキーみたいな見て呉れでも、全国模試トップクラスの秀才だ。しかしながら、やはりその頭脳は、胸元でナイフの如き光をちらつかす、純金の喜平ネックレスと変わりがない。
「やっぱし、頭脳労働にはニコチンだなぁ。考え事がはかどるぜぇ」
そんな劣悪さを知っているからこそ、煙を吹く彼が、煙草そのもの、もといディーゼル車に見えて仕方がない。肺癌に見舞われる方がマシである。轢き殺されてはかなわない。仁はとりあえず音を出す「考え事……?」
「仁ちゃんを、いかにしてからかうか――ああ、冗談だ冗談。よせよせ、それ以上殴ると、ぱっくり二つになっちまうぜぇ。だがな、イラついてんのはこっちも同じなんだぜ。春先からずっとシケた面を見せられてる、こっちの身にもなってくれや」