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仁は、ペダルを更に深く踏み込んだ。あれ程の事件があったにもかかわらず、街に警察官の姿が見当たらない。新宿が爆破されたときには、蟻の這い出る隙もない厳戒態勢がとられたというのに、一体この差は何だろう。田舎だからとナメられているのだろうか、それとも、職務怠慢上等ということなのだろうか。政府の犬の分際で、病院が爆破されるかもしれない有事のときぐらい、いつものような徘徊ではなく、きっちり巡回を行おうという気にはならないのか。ついにサドルから尻が浮く。重病人もいるだろう、病院を爆破などさせてなるものか。仁は医者の息子である。だからといって――そんな義憤に燃えているとは限らない。
「2つ目のリング、ブラックリング」
鼻先にジャーキーを釣り下げられた犬のように、舌と涎を垂らしに垂らす。仁は――リングの奪取に燃えていた。
ペイントボマーがペイントボマーたる証拠がないのなら――誤魔化しが利かないように、現行犯を押さえればいい。病院を示すターゲットマークが描かれてから2日、既に爆弾を仕掛けてしまった可能性も捨てきれないが、そこはもう賭けである。それよりも、警察が動いていないということは、しかしながら嬉し過ぎる誤算である。誰も邪魔する者はいない。どうにかなる――ペイントボマーを、もといブラックリングを、捕まえるのはこの俺だ!
加護江総合病院に到着。マウンテンバイクを、ドリフトでもって駐輪場へと滑り込ます。轢かれかけた老婆が尻もちをついて悲鳴を上げたが、敬老の日は2か月も前だ。右手人差し指、嗤うように輝く黒き髑髏――仁は、病院施設内へと、頭から突撃していった。
外来受付が開始された時刻から待ち伏せをかけてみたが、診察時間が終了し面会時間が始まっても尚、ペイントボマーはその姿を見せなかった。仁は、外来カウンターのシートの上に、ぐったりと身体を凭せ掛けていた。腕時計の針が、午後5時を指し示す。もう8時間もこうしていることになる。尻がシートと添い遂げそうだった。やはり爆弾は既に仕掛けられていて、奴はもうここには現れないのか。だったらここにいては危険なのではないか。いや待て、爆破日時は指定されていない。それなら根気強く待つべきか。結局は行動に結びつかない考えだけの考えが混ざり合い、頭の中が泥沼と化す。貧乏ゆすりをしている脚に気が付いたときだった。目の端に掛かる入り口の自動ドアが、音を立てずにスライドした――
加護江中学校の制服、被ったパーカーのフード、そして、十字架と土星のペンダント――
待ち人が――やって来た。
彼女は、口元のほくろを微動だにすることなく、ただ脚だけを動かして、外来カウンターを横切って行く。突然の来訪に呆けていたぼんくらなど、視界に入っていないようだった。ぼんくらは、我に返った。そして冷涼に微笑んで動き出す。しかし頭の中は、風呂上がりのように熱かった。仁は勿論、彼の前世の大葉恭司も、テクニシャンとは言い難い。にもかかわらず、尾行なんてデリケートな真似をするものだから、その挙動は、迷探偵どころか不審者のそれだった。すれ違った医師が、脱走したモルモットを見るような顔をする。いいお薬を出してもらうべきである。
2階、3階、4階と、彼女は病院を上っていく。廊下の患者や看護師は、フードをすっぽりと被った少女を訝しがっていたが、すれ違い様にその素顔を見たのだろう、心臓麻痺を起したように、息を詰まらせ硬直した。当然だろうと仁は思う。自分の推理が正しかったことを確信し、ドヤ顔を広げながら、観葉植物や自動販売機の陰に身を隠し、彼女をひたすら尾け回す。どこまで行く気だ……。追っている自分が追われているかのように、緊張感が増していく。上へ上へとやって来た彼女。だがしかし、もう上はなくなった。その背中が、屋上へと続くドアの向こうに消え入ると、仁はドアに耳を押し付けた。そして慎重に、ドアを薄らと押し開き、奥の様子を覗き見る。
夜の闇に放り出された屋上に、ちんと立つ後ろ姿があった。彼女が、ゆっくりと膝をつく。その手元は見えないが、コンクリートの地面に手を伸ばし、何事かをしているようだった。乗り込むか。いや待てまだ早い。待て、待て、待て……。気が急く仁だったが、次の瞬間、その目をかっと見開いた――
するりと立ち上がった彼女の足元が、オレンジ色に光っていた――あの、ターゲットアークが光っていた。
「…………」
少女は無言のまま、足元を見下ろしていた。まるで、そこに赤子を置き去りにするかのように。そんな、火の消えた蝋燭のような背中に――
「よう――ペイントボマー」
仁は――そう呼び掛けた。
彼女が、ぴくりと頭を動かした。解くようにフードをとると、黒髪のサイドテールが、夜風の中にはためいた。その左手の薬指には――鬼の寵愛が宿る、黒き髑髏の指輪が光っている。
「やはりお前だったか――橘理奈」
彼女が、振り向く――
最早フードにも、勿論短い前髪にも隠されることはなく――その猫のように大きな釣り目が、名探偵気取りの男を、確と瞳の中に捉えていた。




