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「君達! 近付いちゃいかん!」
最悪の予想に辿り着いたとき、背後から、一人の教師が警告した。彼の苦悶に満ちた表情が、その予想が真実であることを、火災警報器のように告げていた。仁は、立ち尽した。しかしそれでも、この男は――
「るっせぇんだよ、このなんちゃって聖職者。生徒を救う気がねぇんなら、今更善人気取ってねぇでとっとと失せろ。誰もテメェを責めやしねぇ。もうこいつは――助からねぇ」
岡島秀一は――煙草を咥え、その先端に火を宿す。少女が、面の皮を破かんばかりに罵詈雑言を叫んでも、立ち上る紫煙が揺れるばかり。その煙でさえ吹き飛ばすようにして、秀一は、強く細く白煙を吐く。顎をしゃくり、カウント『9』の少女を見下ろして。
「お前はよく、『愛は世界を救う』だの、『愛があれば何でもできる』だのと、甘ったりぃことをほざいてやがったな。最期の最後になっちまったが、餞として教えてやる。残念ながらな――愛なんてもんは、動機にはなっても手段にはならねぇんだよ」
その表情には大いなる諦観があった。角を立てる――氷山があった。その影が夜の水平線に消え去ると、寒々とした潮の音がした。一筋煙を吹いたきり、踵を返した秀一は、振り返ることもなく、ただもと来た道を、その足でもって歩いて行く。
少女の唇が震える。
カウント『3』…………。
少女の脚が震える。
カウント『2』……。
少女の肩が震える。
カウント『1』。
少女の顔が――天を仰ぐ。
「いやだいやだいやだいやだ! 死にたくないいいいいいいいいいいいいいいい――っ!!」
断末魔――涙・鼻水・小水を垂れ流し、少女は喉を吐き出さんばかりの音声を発した。
その腹に描かれしマークは、狙いを定めしターゲットマーク――
終わらせる標的の只中で、その光は大きく大きく膨らんで――
猶予なく――『0』の刻に破裂した。
秀一が、ヘッドスライディングをするように倒れ込む。仁もまた、隣で突っ立っていた悠を巻き込み倒れ込む。誰も彼もが、閃光と爆音の中に倒れ込む――
どのくらい……蹲っていたのだろうか。仁にはそれさえ、わからなった。時間の感覚は、あのオレンジのフラッシュによって、強奪されたきりだった。瞼を、押し上げる。何もかもが、緩慢だった。起き上がる人々も、降り注ぐ火の粉も、漂う砂塵も、何もかもが、緩慢だった。だからこそ、残酷だった。風に靡いた砂塵が曝したものもまた、ねっとりと、瞳の中に絡み付く――火達磨の下半身が、横へ横へと倒れて行く。
校舎、一発の爆発が、時間の感覚を突き返す。そしてそれは、絨毯爆撃の口火を切った。パニックに陥った生徒や教師が、悲鳴で校庭を塗り潰し、吹き荒れる熱風となって駆け出した。
再び靡いた砂塵に乗り、鼻を溶解させかねない臭いが流れてくる。仁は思わずその場に蹲る。それは、決して嗅いではならない、人の尊厳を踏み躙る臭いだった。肉や髪、腸の中身が、おおっぴらに焼けている。胃が燃える荒縄で吊られるように圧迫され、喉元には酸っぱい液体が込み上げる。
「大丈夫か?」
背中をさするような声がする。振り返れば、そこには秀一が立っていた。仁は、悪友の姿を認めながらも、反吐を吐き捨てるようにこう答えた。
「大丈夫なわけないだろう……吐きそうだ」
「元気そうで何よりだ。だったら早く身体を起こしてやんな。饅頭が二つになっちまう」
肩を竦めた秀一だったが、それでも尚、エチケット袋を差し出すような所作でもって、処理すべきものを指差した。仁は、己が逞しい胸板に押し潰されている、確かな密度と温度を感じ取る。悠が、殺虫剤をかけられたゴキブリのように、じたばたじたばた踠いていた。しかしながら、既に耐性を獲得していたらしく、身体を起こしてやると、すぐさま飛び立つように跳び起きた。
「ぱはあっ! あ~苦しかった。一体全体、何が起きたのかな?」
「人が死んだんだよ! 何寝ぼけてやがんだっ!」
「へう? 悠はこの通り起きてるよ?」
もう永久に眠ればいい。フリーズした液晶ディスプレイに対しているような冷たく重い疲労を感じ、仁はその場にへたり込む。覚束ない瞳が、電源スイッチを探すも、端からそんなものはありはしない。ただあるものは――地獄変を映し出す日常だった。落日の朱に染まった校庭で、黒煙と悪臭と火の粉とに追い立てられ、狂乱した群衆が、校外を目指してうねりにうねる。
ふと仁は、その流れの中に、とある小石を発見した――
流れも沈みもしないその影は、切り絵のようにも見えてくる――
しかしそれは、確かに厚みのある――一人の女子生徒の影だった。
紺のブレザーの下に着たパーカーのフードを被っているため、その顔立ちは、はっきりとは見て取れない。ただ彼女は――あの誰もが目を背けたくなるような黒焦げの死体を、息の音も立てずに望んでいた。こちらの視線に気付いたのか、彼女がゆっくりと顎を持ち上げる。やはり、フードの陰に隠れていて、その目の有り様は見て取れない。しかし彼女は、確かにこちらを認めていた。結んだ唇は、ひくりとも動かない。口元のほくろも、色気ではなく寒気を感じさせる。ややあって彼女は、通学鞄を担ぎ直すと、こちらに背中を見せつけた。十字架を頂いた土星のような、やたらと大きく重そうなペンダントが、腹の辺りで揺らめいて、金色の反射光をきらりと放つ。振り返ることはなかった――明らかに異質なその人物は、群衆の中に紛れて消えた。
「どったの? 仁くん」
「あ、いや……何でもない」
悠の声が耳に届いたが、仁は一顧だにしなかった。もうあのパーカー女子の姿は見えないというのに、心を掏られてしまったかのように、群衆の流れを、ただひたすらに見つめていた。
加護江市全体を標的にしたこの爆発事件は、瞬く間に報道された。爆発する落書き。その犯行の手口から、正体不明の爆弾魔は、こう呼ばれることになる――
『ペイントボマー』――と。




