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そんな秀一だったが、学校を出る頃には、さながら不死鳥のように、灰の中から蘇り、怒りの炎を纏っていた。ニコチンの欠乏というわけではない。さすがにバスの中では自粛していたが、今彼は、人目を憚らずに煙草を吸っている。欠乏しているのは、カルシウムの方こそだ。そして、彼の腹や目くじらを立たせるものは、考えるまでもなく、この理不尽なお使いに他ならない。それに、提出書類や伝言を届けに行くだけの、たったそれだけ世話だとは、とてもじゃないが言い難い。秀一のような人間にとっては、殊更ストレスになるだろう。そんな彼を、彼自身が最もよく知るはずである。仁は、不審でならなかった。行きつけの喫茶店と化している最寄り駅でバスを降り、目的地へと向かう徒歩での道中、夕陽に映える銀杏の絨毯が見えないのか、燃えるままに煙草を投げ捨てる、そんな彼の投げ遣りに、それとなしに尋ねてみた。
「昼休みにも思ったが、お前ともあろう者がよくオーケーしたな。降り出すんじゃないのか? やめてくれよ、傘も盾も持ってきてないんだ」
「リムジンでも装甲車でも、迎えによこせや、お坊ちゃん」
秀一は、リレーのバトンを引き継ぐように、新たな煙草を咥え火をつけた。不味そうに、煙を吐く。あからさまな舌打ちが、降る気配の見えない綺麗な夕焼け空を突き上げる。
「そんなもん、遠足のおやつにガムが禁止な理由とどっこいだ。下手に踏ん付けでもしたら張り付いちまう。仁ちゃんの嫁さんは、そんな面倒な女だよ」
聞き捨てならないことを、包みもせずに吐き捨てやがる。
「千尋のどこが面倒なんだ。竹を割ったような女だろうが」
「あ~はいはい、ごちそ~さんごちそ~さん」
「真面目に答えろ、グラサン叩き割るぞクソ野郎」
秀一は、煙草の灰を叩き落とす。
「素直じゃねぇ――ところがだよ」
お前は誰を見てものを言ってるんだ。昂る色眼鏡への破壊衝動を抑えに抑え、仁は尚も繰り返す。
「いや、だから、あいつは竹を割ったような――」
「サバサバ系なんざ――女も男もありえねぇんだよ」
異論は認めないとばかりに、ばっさりこちらの言葉を切る秀一。板前にでもなればいい。そんな彼は、包丁みたいな自説で、人を捌く。
「山野井はあれこれ理由をつけていやがったが、とどのつまり、いじめられっ子の滝川と仲良くしてほしいっていうのが本心だ。いじめを見過ごしていた罪の滅ぼしでもなく、クラスメートとしての義理でもなく、何の見返りも求めず無償でな。さながら――正義のヒーローみてぇによ」
「まぁ、それならそうと言えと言いたいところではあるが、面倒な女呼ばわりするレベルじゃないだろう。大和撫子特有の、奥ゆかしさの範疇さ」
異論は認めないとばかりに、さすがは俺の千尋だと、仁は己が喜悦を抱き締める。
「仁ちゃんもよ――シールは納めても、ウエハースチョコは捨てるタイプだろう」
ふいに秀一が呟いた――リスが枯葉に、どんぐりを落とすようにして。
仁は思わず、小首を傾げる。
「何を言う。俺はウエハースチョコもきちんと味わって胃に納めるプロトタイプだ。そんな憲章に反する真似は趣味じゃない」
「御顕正だなあ。こっちも健勝になってくらぁ。菓子のポイ捨ては、やっぱり俺も趣味じゃねぇ」
何かの尾が仄めくような言い方だったが、結局それを掴むことは許されなかった――
まだ長い煙草が、アスファルトの上に跳ねると――
「まぁ一番趣味じゃねぇのは――この大馬鹿野郎なんだがよ」
ふいに秀一が豪語した――枯れ葉を踏み荒らし、イタチがリスに食らい付くようにして。顔こそ笑っていたが、ちらりと覗くその牙が、てらてらと唾液で光っている。転がされた煙草は、火の粉を散らし踏み潰される。
そんな彼と並び立たなくとも、仁もまたやはり、それを睨まずにはいられなかった――
周辺の民家の中のただ一軒、ごくごく普通の二階建て――
しかしその表札には――『滝川』の二文字が刻まれていた。
「さくさく行くぜ」秀一は言った。仁は、眼を逸らそうと顎を引いたところだったが、そんな猛る勇者の一声で、『逃げる』のコマンドを失った。魔王の待つ城、とまでは言わないが、魔物の棲む洞窟ぐらいには見えてくる。どうやらセーブポイントはないらしい。人生楽あれば苦あり、くよくよ悩まずまっすぐ進め。そんなことを言う奴がいるけれど、端から旅などしたくはないインドア派は、情け容赦なく鳴り響いたチャイムの音に、打たれたように頭を落とす。
ややあって――インターホンの回線が繋がった。




