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「ということで、早速もって、見せてもらうわ―」
ふいにその、冷たくも潤いのある雨音が、焼野が原を渡って行った。千尋が、握手を求めるようにして、その右手をこちらへと差し出していた。しかし、差し出されたその手には、既に一枚のA4サイズの紙が握られていた。受け取る秀一。仁もまた、机の向こう側で身を捩り、横合いから、その物体を盗み見る。果たし状じゃあるまいな……拳と拳で語らえば、人間みんなわかり合える……そんな昭和じみた、易しい時代じゃあるまいし。そんな心配を思わずしたが、それは結局、ただの進路希望調査の用紙に他ならない。ワープロソフトで印字された明朝活字が、理想の全校集会の生徒のように並んでいる。
「悠ったら、提出期限は明後日だっていうのに、机の中に入れっ放しだったのよ。しかもあの子、今日風邪で休んでいるでしょう。放課後二人で、悠にそれを届けてきてよ。クラスメートでしょう?」
クラスメートだが他人だ。仁は、答案に名前を書くようにそう思う。他人よりも自分、忘れられる紙より忘れられぬ心痛。道草も夕食も食わず、早々にベッドに潜りたかった。
秀一もまた、気乗りしないようで、新興宗教の新聞を受け取ってしまったかのように、紙面に宇宙的な目を浮遊させていた。だが――
「しゃあねぇな…………」
その答えは、期待を裏切るものだった。秀一は、ニコレットガムを噛み締めながらも、三つ折りにした用紙を、懐へ丁重に納めた。何てこと言ってんだこの野郎! そう叫ばかりに、仁は口と目を丸くする。鮮度の危うい魚を食べたときのように、腹の調子が悪くなる。「お礼を言うわ、ありがとう」千尋は、さっきまで火花を散らせていた相手に会釈をした。始終背景に擬態しようとしていた幼馴染の抗心など、至極当然、完全完璧に無視だった。
「あと、ついでと言ってはなんだけど、伝言もお願いできるかしら。例の漫画、部活が終わったら届けに行くって。あの子、携帯無精なのよね」
そして更に、いらんことを付け加えた。時は金なり、盗人猛々しいとはこのことだ。しかもその盗人は、豪奢な城の殿だった。仁は思わず、追い掛かるようにして、ついにその身を乗り出させる。
「待て待て千尋、ちょっと待て。お前もどうせ滝川の家へ行くんなら、まず伝言は必要ないし、進路希望調査の用紙も、自分で届ければいいじゃないか」
「はぁ……これだから仁は。そんなことだから、ここぞってときにあそこでってことになっちゃうのよ。善は急げ。幼稚園の先生にも、言われていた事でしょう」
やっと言葉を交わせたというのに、塵を吹き払うようなため息を添えられた。そしてその吐息は――一陣の風となって焼野が原を駆け抜けて、雨雲を吹き飛ばし、消えかかっていた戦火を燃え上がらせた。
「片方だけでも――赤を見て然り、かしら?」
一本背負いの次は、一本貫手突きだろうか。仁は頭を垂れ下げて、念願叶って背景と化した。
「じゃあ、頼むわよ。それと、次は体育だから、そろそろ準備した方が賢明よ」
そして千尋は踵を返し、背中越しに大漁旗のように手を振りながら、友人達のもとへと帰っていった。彼女の言葉通り、周囲のクラスメート達は、更衣室へ向かうべく動き始めていた。




