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「わかった……よ」
ややあって――悠は言った。その闇色の瞳には、唇を『へ』の字に吊り上げ眉間に皺を寄せた、底意地の悪そうな女の顔が、それでも揺れることなく映っている。まるで、渦を呑み込み湖面に映える満月のようにして。何事かを呟き、重々しく落下する薄い肩の向こうで、五色の影がぶわりと揺れた。
『では確認しよう。滝川悠、貴様の夢は――相沢仁、橘理奈、山野井千尋、以上3名の治療に相違ないな?』
「OK牧場~」
変更された夢に、千尋は驚愕せずにはいられなかった。よくよく見れば、あの針山女は仁を掠め取ろうとしていた橘理奈で、彼女には消えてもらいたかったが、そんないらんおまけを差し引いても、冷静になって考えてみると、自分が仁とセットで生き残れる事は、幸運としか言い様のないことだった。仁を殺さないでくれとは願ったが、私も殺さないでくれとは願っていなかった。
「知ってる知ってる、悠でも知ってる。不二木先生でも仁くんでも、アシスタントさんがいるんでしょ」
しかし、夢は変更されても――悪夢は変更されやしない。
「『レインコート』の連載終了は、確か来年6月だったよね。だから悠は半年待つよ。三人の命は――悠からの借り物なんだからね」
悠はそう宣告して――真っ白い歯を見せて笑った。
『では、そのように――』閻魔の声が、余韻を香らせながら、幕のように下りてくる。仁と理奈の身体が、輪郭と色彩を取り戻し、刻まれていた傷も、塗布された五色の光の中で、みるみるうちに癒えて行く。千尋もまた、確かにある手の平で、既にない後頭部の傷を撫で回す。しかしながら、左胸の傷は癒えやしない。その血痕マークの入れ墨は消えやしない。『駄目な子』である罪が消えない限り――凄い子は、そこに刃を突き立てる。
『これで御役御免だな。では――さらばだ』閻魔の五色の影が、世界が割れたような音を放って砕け散る。ステンドグラスのような破片が、それでもシャボンのように優しく舞う。映画館を庇護していた不可視の渾円球もいつの間にか消えていて、途端に冷たい風雨が襲って来たが、未だ褪せない灼熱の宴の色に染まり切り、酔ったように踊り狂う。
爆発から逃れたこの一角。その宴の主は――不相応な華奢な背中を見せ付けて、威風堂々と歩んで行く。気付けば、今更ながら宴の興を削ごうとする無粋な紅のサイレンが、まるで白波のようにして、崖の如く直下した映画館の縁に打ち寄せている。彼女は、宴をともにした者達へのお捻りだとでも言うように、左手を飾る5つの指輪のうちの4つを、一振りでもってばら撒くと、『せいぜい強くなれ』と、そんな主人公を打ち負かしたラスボスが言いそうな台詞を置き残すわけでもなく、自分自身の左胸に、たった一つの頷きを突き立てた――
そして滝川悠は――世界へと飛び立った。
やがてサイレンは、サイレントへと鳴り果てた。今までの乱痴気騒ぎが夢であったかのように、雨が世界を洗い流す。しかし現実は、洗い流せない。追い縋るように、それでも力なくふらふらと、映画館の縁に立った千尋は、見下ろした情景に、ため息さえも殺された。へたり込む。握り締める刀はない。横たわる二人も、寝息を床に這わせるばかり。
どれぐらい私は眠っていたのかと、今更ながらに考える――
それでもどうか間に合えと、あの赤服を纏った聖人に、今欲しい物を言い告げる――
せめて――三人分のレインコートを、と。




