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「夢ばかり見んなやカスボケ」
そんな風に言われた彼女は、それでも飄々として笑った――知ってた知ってた、悠でも知ってた。その唇から漏れたため息に、今にも千尋は、びょうびょうと吠え出してしまいそうだった。身体はどんどん消えて行く。題名『憤死』の胸像が、今ここに出来上がる。
クラスメートは言った、二人はまるで姉妹だと。冗談じゃないと、千尋は思った。しかし今ならば、ムカッ腹は立つが頷ける――
私も悠も――自分が一番可愛いんだ。
人間誰しもがそうであるはずだし、それを否定する連中こそがサブカルチャーなのだと彼女は思う。思うが、それでも尚、姉として、妹を馬鹿にしてやりたいところがある――
私も自分が一番可愛いわ――
それでもね――
自分だけを抱き締めるなんて――お寒いにも程がある。
「仁を殺せば! 不二木幸平を殺せば! 作者を殺せば! 『レインコート』の続きが読めないわよ――っ!!」
気付けば頭の中は真っ白だった。真っ白な灰が吹き荒れていた。それでも炎は消えず、それどころか爆発し――千尋は遮二無二シャウトしていた。身体が新鮮な空気を求め、吸い込んだ冬の冷気は、その炎が爆ぜ消えた今、身体を内から凍えさす。半ば氷像と化し、自分を悔いる。何て馬鹿なことを言ったのか。悠がいくら『レインコート』の愛読者だからと言ったって、こんな馬鹿馬鹿しい大嘘に騙される程、大馬鹿者ではないだろう。ほら見たことか、彼女は締まりのない社会の窓みたいに、口をぽかんと開けている。わかっているし、見えている。だが、今更退くわけにはいかなかった――
「知らなかったでしょう! 当然よね! あなたは仁のクラスメートで、私は仁の幼馴染なんだもの! 仁はこんな野性的なナリをしていても、あんな知性的な作品を描ける、当代随一の漫画家なのよ! 何で秘密にしていたかって!? 仁は子供の頃からデカくて強面で、だからだから、目立つってことが大大大っ嫌いなのよ! それはそうとどうするのよ! 仁の右手、真っ二つじゃない! と言うか、仁自体が消えちゃいそうじゃない! あなたは自分が好きな作品を――打ち斬り終了にしたいわけっ!?」
随分と盛ったものだ、相撲取りでさえ吐くだろう。これ以上は無理だ、息も言葉も思考回路も続かない。千尋は、形なき膝に形なき手をついて、皹割れた喉を、ぜえぜえはあはあ震わせる。細めた目の中、瞳をぎこちなく持ち上げると、悠の開け放たれた口が映り込む。今にも齧り付かんとする、そんな開閉する口が映り込む。万策尽きた……と、思わず瞳と瞼を落っことす――
「嘘……でしょ? 嘘……だよね? どうせ嘘……なんでしょ?」
しかし、耳に滑り込む、その小さき羽毛のような吐息と言葉に、瞼と瞳、そして顔を搗ち上げた――
滝川悠が、怯えていた――
ひり出された光に瞳を刺された赤ん坊のように――今にも泣き出しそうな、顔をして。
千尋は、赤ん坊なんか大嫌いだった。戦いもせずただ強請るばかりのその脆弱が、何よりそれを許されてしまうその特権が、忌々しくて仕方がなかった。しかし、自分のようなガキが、それでもガキを産んで抱き締める、その行為の根底にある気持ちもわかっていた。
「悠――お願い。仁を――殺さないで」
問いには答えず、嘘を嘘のままにして、それでも澄み渡った声色と表情で、千尋は言った。そして悠と同じくらいに、いや彼女以上に、山野井千尋の内側へと眼を注ぐ――
綺麗事を並べるつもりはない。自分が一番可愛い私は――自分を温めたいだけなのだ。人間なんて、自分の腕だけでは、自分の身さえ満足に温められない。やはり私は、あの不貞浪人の生まれ変わりなのだ。温かな返り血を頼った彼、温かな腸を頼った私。私にとっては、大切な者は大切な物に他ならず、抱き締めるぬいぐるみに他ならない。しかし、同じ物は二つとない。Amazonでも売っていない。仁が仁でなくなっただけでもこんなにも寒いのだ。悠が悠でなくなったとしたら、きっと私は凍え死んでしまうだろう――
私は私のために――
悠に仁を殺してほしくなかった――
悠に――妹でいてほしかった。




