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「悠の夢を―叶えてよ」
その声が――音頭であった。
乾杯をするかのように盛大に、されど音もなく空気の動きもなく、それは厳粛に広がった。悠を中心に、その手の五つのリングを中心に、人間の眼では侵し難い何かが、世界を渾円球に切り取った。そこはまるで、下賤の与り知らない領域だった。空を千切りにする冷雨も、建物を呑み下す爆発も、この聖域に、侵入することは敵わない。天井に弾かれ、壁に押し戻され、その罵声でさえも届かない。ただただその醜態を、見世物よろしく曝すのみ。
すると、息つく間もなく、五つの髑髏の双眸から、五色一和の光の糸が放出され、とある一つの形を編み上げる――
天を頭で衝き、地を尻に敷く――
その形は、その影は、裁きの神――閻魔大王のそれだった。
千尋は、幼い頃開いた絵本を、頭の中に開いていた。見開きに鎮座する彼の姿は、父が餓鬼に見えてしまうぐらいに恐ろしく、それ以降、表紙に指を乗せることさえしなかった。そんな絵本を、頭の中とはいえ、こうして開いてしまうのは、十余年ばかりの間に、自分自身よりも、何より彼が変貌してしまったからに相違ない。造形こそあの頃のままだったが、その色彩は、五色の混ぜ合わせそのままで、飲酒運転を飲酒裁判しそうな、そんな胡乱な印象が、五臓六腑に染み渡る。私はこんな奴に……と、白昼夢から醒めた気分に浸り切る。だがしかし――
『貴様が五つの髑髏を集めし者か――名を名乗るがいい』
この世のものとは思えない――さながら天蓋を落したような声がした。その大いなる圧力に、頭が重く、低くなる。が、平伏を堪え、気丈に健気に睨め上げる。胡乱な見て呉れではあっても、やはり閻魔は恐ろしく、そして何より厳粛だった。そして、胡乱な見て呉れではあっても、やはり閻魔がその者を見下ろしていることは、明々白々のことだった。
その者は、畏まる風もなく、薄い胸を張ってこう言った――
「悠――滝川悠。悠ちゃまでいいよ」
滝川悠は――一つの眼で、二つの眼を押し返してそう言った。
しかしながら、そのあまりにフランクな応答に、唖然としているかのように、あるいは値踏みしているかのように、いずれにせよ、閻魔は重々しく沈黙した。しかしややあって、
『滝川悠、貴様は儂に何を望む』
御膝元を支配するように、話を進めた。
ざんざんの雨とぼうぼうの炎が、聖域の天井と壁を、相も変わらず叩き続けている。しかし、そんなしみったれたやっかみは――最早誰の耳にも届かない。
「悠を――全能の神様にしておくれ」
ほっぺに両の人差し指を突き刺して、これでもかと自分を指差して――
悠は閻魔に――夢を語る。
「才能は、生きるための力だよ。そんな力は色々あるよ。運動会のリレーでアンカー、暗号みたいな英語をすらすら読んで、鉛筆一本で写真を描いたりさ。そんな力がいるんだよ。生きるためには、本当に生きるためにはね。力が全てだよ。力のない駄目な子は、自由になんて生きられない。駄目な子の命は、力のある凄い子からの借り物だから。だからねだからね。駄目な子の悠は、凄い子になりたかったんだ。凄い子の中でも、一等賞の凄い子に。一等賞の凄い子は、どんな子よりも自由に生きられる。そんな子は、全能の神様しかいないよね。悠は――特別自由に生きてみたい」
外の爆発は盛りを迎えた。語れば語る程、その顔は上気し、呼吸は喘ぐように五月蠅くなり、そのぽっかりと開いた眼窩からは、生血が灼々として溢れ出る。
その瞳は、色などない眼鏡のレンズの奥にあり、どれ程明るく、その真理を映したことだろう。千尋は悠を、直視することが出来なかった。それでもやはり、その鼻は、入道雲から漂う夕立の臭いを嗅ぐように、その饐えた臭いを嗅ぎ取った。それは、嗅ぎ飽きている、勝負の鎖の臭いであった。剣道、居合、空手に柔道、合気道。その鎖で自身を緊縛して生きて来たからこそ、見るまでもなく、嗅ぎ取れる。この世はとても、鉄臭い。家で教室で街中で、親もクラスメートもどっかの誰かさんも、何気ない会話をする唇やすれ違う瞼が、開かれ閉められする度に、鼻の奥につんと来る。人間誰しもが、時も場所も手段も相手も選ばずに、『一等賞の凄い子』になりたがる。そう、『特別自由に生きるため』。今まさに目の前で、一人の人間が現実にしようとしているその夢は――全ての人間の夢に他ならない。
が――
神様という奴は――
人間に対して――
やはり――どこまでも意地悪だ。




