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BLACK RING  作者: 墨川螢
第3章 サックガーデン占拠事件
133/148

3-44

 岡島秀一が、滝川悠に吠えている。それは、朝食のトーストにストロベリージャムがたっぷりと塗られているような、そんなお馴染の様式だったが、仁は、そこに妙な違和感を覚えずにはいられなかった。言うならば、いつもは綺麗な狐色のトーストが、その耳の一部だけ、鼠色に焦げているというような、些細だが重大にも思える、そんな種類の違和感だった。頭上から尚も降り注ぐ聞くに堪えない罵詈雑言が、その隔たりを、更に大きく切り開く。なぜだろうか、あのスピーカーの向こう側にいる男は、秀一などではなく、彼よりもよっぽど親密な誰某であると思えてくる。なぜだろうかどうしてだろうか、とっくに切ったはずの友好の糸の端と端とを探してしまう程、同情の念さえ湧いてくる。なぜだろうかどうしてだろうか、わからない。そして――わかりたくもない。仁は目を逸らし、更には耳を塞がずにはいられなかった。

 すると――その音を耳にした。脆くなった何かが砕ける、あっけなく涼しげな音だった。仁は、弾ませるように顔を上げた。そこには、幼き日の冬、マラソン大会当日の朝の空があった。時の流れさえ凍てつく家の庭で見上げた、雪華(せっか)の舞う空が、深々として広がっている。が、どうしたわけか、空から鏑の()を含んだ一陣の風が吹き下ろされると、そこに踊っていた白雪が、まるで筆を振り下ろしたかのように、黒い雨に変わって降って来た。そして世界は、黒一色に塗り潰された。この身体も、正体が不明となる程に黒く塗り潰され、濡れそぼっているに違いない。そう思ってしまう程に、満遍なく、濡れた衣服が背中にへばりつく不快感があった。そしてその不快が乾くことを許さぬように、何かが覆うようにのしかかっている。その重みによって、身体は腹這いに床に押し付けられていた。何だってんだ……。仁は、そんな重みに屈しはせず、無理矢理身体を引き剥がす。が、そんな労力の甲斐そのものであるかのように、背中にあった重みは、滑るように剝落した。仁は、いつの間にか閉じていた目に気付き、それらを開けて目撃した――

「雨宿り……できましたか?」

 そこにある世界の破片の一つは、それでも鋭く、その目の鱗を削ぎ落とす――理奈が傍らに、うつ伏せになって倒れていた。声が浮き出たその背中は、さながら酸性雨に枯れた林のよう。それでも根深く、無数の鉄筋は屹立する。爆音が鳴り響く。壁が食い散らかされる。天井の洞穴(ほらあな)では、暗黒と紅蓮の二匹の大蛇が、噎せ返る程お熱く絡み合う。しかし仁は、動かない。理奈は、白骨化した馬の飛蹄を思わせる、軽く速い呼吸を繰り返す。そんな彼女を、視診する。医者の父親に勘当を申し出ようと思ってしまう程に、視診することしか、できなかった。そんな彼を許すように、もとい、こんな自分は許せないとでも言うように、理奈は、折れ返って出血する程に爪を立て、鉄筋の林を背負いながらも、まだ立ち上ろうと身体をうねらす。仁は思わず、その手を取って握り締める。が――

「私なんかより周りを見なさい――っ!!」

 理奈は、弾ける吐血も厭わずに、爆ぜる声で、そんな彼を叱り付けた。その手を払い、その手の枷までも払うようにして。鬼気迫る彼女の姿に、仁は無意識に、銅鏡の如き目を掲げていた――

 その鏡を貫かんとするように――象牙の如く鋭く反り返った、マリンブルーの硝子片が、火炎を割って迫っていた。

 仁は、骨の悲鳴を聞き捨てて、振り落とさんばかりに首を振り、その尖端から(おもて)(のが)す。耳朶は裂かれこそしたが、風切り音をしかと聞く。が――硝子片が狙っていた者は、彼などでは断じてない。そこにはきっと、スピーカーの向こうで今もああしてうるさく鳴いている、一人の小僧の志念が、ふんだんに練り込まれているのだろう。その想いの丈を青々とした光に変えて棚引かせ、硝子片はさながらミサイルの如く、標的へと吸い込まれて行った。被害を回避できた身の上であるにもかかわらず、そこに、ありもしない痛みが突き刺さる。炎の逆光の中にあるシルエットではあっても、その惨状は、火を見るよりも明らかだった――

 滝川悠は――左目に硝子片を突き立てられ、上体を反らし、首を垂れ下げて、さながら朽ちた墓標のように、幽寂の中に佇んでいた。周囲の炎と煙を映した硝子片は、鼈甲の輝きを獲得し、まるでそれは、一人の人間から抽出された、生命の結晶のようだった。

 が、だが、しかし、それでもやはり――


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