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「ねぇねぇ、仁くん――」
今すぐにでも、岡島秀一の名前を、スマートフォンの電話帳から削除して、過去帳に記入してやりたいところである。しかしそれは、どうやらお預けのようだった――
悠が――座席に立て掛けてあった日本刀を、黒石目塗りの鞘の日本刀を手に取った。そして足下を確かめるように頭を垂れ、ひたりひたりと歩を進める。座席の列を抜け、段々を一つ一つ背後にし、館内を二つに分かつ中央の通路へと、仁のもとへと、淀みなく。
「お喋りは嫌いじゃないよ、楽しいもん。でもね――もっと楽しいことが待ってるから」
「アメイジング、お前と意見が合うとはな。だがな、キッズとのサンバは趣味じゃねえ」
「英語はよくわかんないや、ごめんね。ああでもでも、こういうときのかけ声は知ってるよ。悠でも知ってる。ええと確か、そうだそうだよ――レディーファースト!」
仁は、固まった。しかしそれは、人を氷穴に放り込む、天然の狂言の仕業などでは断じてない。悠がその顔を掲示した瞬間に、足の爪の先から髪の毛先に至るまで、くまなく全身が分厚い綿に包まれたかのような、そんな圧力に見舞われた。搾り取られ、吸い取られる。噛み付いてでも引き止めんとするかのように、その奥歯を軋らせる。鳴りを潜めていた後頭部の傷が口を開き、鮮血の呻きを垂れ流す。ここに来るまでに沈んでいった、幾多の黒服達を思い出す。そして思い描く。薄ぼんやりと光るスクリーンを仰ぎながらも、胸の日本刀を扱いている、滝川悠の――あの青白いにこにこ顔を。そんな絵取りを収めたキャンバスは、いつの間にやら、イーゼルもろとも消えている。サンバどころか盆踊りも踊れたもんじゃねぇ! 仁は、春眠の心地良ささえ感じ出した身体を叩き起こすべく、拳で頬を一撃した。その一撃がなかったら、この一撃で、心臓を貫かれていただろう。頬を殴った拳を、今度は中空へ向かって振り回すと、固い手応えがそこにあり、間髪容れず、カーペットや床材の破片が、鼻先を掠めて跳ね上がる。黒石目塗りの鞘が、さながら槍の如く、すぐ傍らに突き立っていた。その表面をぼやかす反射光が、ふいに影に攫われる。その影は、横合いから飛んで来た。捩じった身体に腕を巻き付け、刀を引き絞って飛んで来た。構えをそちらに振りながら、スウェーバックで首を逃がす。宙に置き去りにされた汗の雫が、白刃の一閃に両断され、鼻孔に研ぎ澄まされた鋼の臭いが流れ込む。
「わおわおやるぅ――」
「テメェもな――」
刀を振り抜いた体で、悠は言う。
躱した体で、仁は言う。そして、引き絞っていた身体を放ち、足・腰・肩を、内側へと捻り込む。スラッグ弾の如き右のストレートが、両断された汗を、更に光の粒へと破砕する――
しかし悠は、顎を撃ち抜かれようとしたその瞬間、さながら背面飛びをするかのように、唸る拳を躱して見せる。そして勿論、マットのない固い床へと背中を落とすはずもなく、まるで猫のように、空中で捻った身体を、難なく四肢から着地させる。そして息吐く間もなく、チーターのように発進する。仁が後退することで設けていた間合いを一瞬間に、そのローファーの靴底が踏み潰す――
斬り上げ、袈裟斬り、身体を回転させての横薙ぎと、次から次へと襲い来る凶刃を、仁はことごとく掻い潜る。一見すれば、防戦一方の体だった。しかしその口角には――策謀の色が仄めかされていた。ブラックリングの基本形能力にはリスクがある。前世の記憶の顕在化により、超一流の戦闘技能の知識は得られても、それを完全再現するに足る肉体は得られない。超一流の戦闘技能を、所詮は一般人の生半可な肉体に実行させたとしたら、骨は軋み、筋肉は擦り切れる。しかも、女であるうえに貧弱なつくりの悠が、こんな最初からクライマックスみたいな攻め方をしていたら、マラソン大会によくいる尻すぼみ野郎と同じくして、スタート間もなくバテてくるだろう。動きが鈍ったが最期――守るものなどないその頭蓋骨を叩き割ってやる。刃を躱し屈んだ体勢からの、ボディーブロー。しかし拳は、柳のような残像を貫くばかり。悠は、右へと上半身を逃がしていた。仁は、心得ていた。尻すぼみ野郎の尻を叩くのは、その自己顕示欲と、そして何より、それを満たす周囲の喚声であることを。左のスニーカーの靴底が、ドリルの如く回転する。悠が身体を逃がした矢先、相対する方向より、仁のソバットが鞭のように飛んだ。悠は、牛若丸を彷彿とさせる軽快な身のこなしで、垂直に跳び上がると、自分の顎を弾かんとした脚を踏み台に、更なる高みへと舞い上がる。身構える仁。天井を蹴った悠が、燕の如く、空気を割って突進する。仁がバク転で飛び退くと、目と鼻の先の床に、白き光線が突き刺さる。鍔元まで床に沈み込んでしまった刀を抜き取るべく、悠は両手でもって柄を掴み、腕と脚を強張らせる。そのときだった。その時は、やって来た――
まるでエンストを起こした車のように、悠の下半身から力が抜け、まんまるい膝頭がおっこちた――
貰った――見開いた眼に獲物を据え、仁は獅子のように躍り掛かる。
が――




