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「姫。相沢仁様をお連れ致しました」
スキンヘッドの肉声が、闇の中にふわりと浮かぶ。
仁は、彼の声の行く先を、視線でもって追跡する。千尋はどこだ、無事なのか。その珠のような肌に擦り傷の一つでも見つけたら、そのパチンコ玉みたいな頭を弾いてやる。毒蛇や蠍がうろつく砂漠の只中にあるという緊張感は、オアシスの潤沢な光がちらついたその瞬間、最早取るに足らない汗雫のようにして、焼ける砂の上に蒸発した。
が――
「何で怪我しちゃってるのかな? 言ったよね。ピカピカのままで連れて来てって――駄目な子駄目な子。その命、返してもらうよ」
オアシスは――天地逆だった。その少女の声、もといその幼女の声は、鼓膜に引っかかることなく脳へと染み入る、そんな軟水のような声だった。しかしそれは、大ハマグリの嘲り声に他ならない。逆さまのオアシスは、それでも忌まわしい熱砂の上に、一滴の恵みも垂らすことはなく、舞い踊るように消え去った。
仁は、眉に唾を塗りたい衝動に駆られた。だがしかし、本能がそれを許さない。喉を鳴らして、ダイヤのようなその唾を、腑に落とそうと試みる。しかし意志も譲らない。ダイヤだろうがタイヤだろうが、飲み下すまいと試みる。結果、呼吸困難に陥った。喘ぐその口は――幼女の名前を吐き出そうと試みる一方で、少女の名前を吐き出そうと試みる。
そんな身が裂かれそうな葛藤を掻っ攫い――ふいに緋色の雷が迸る。この闇の中にあって、それはまるで世界に開いた傷口のようだった。しかし、一騎当万の猛将が放つ大喝の如き雷鳴は、世界に呻く事さえ許さない。仁は、咄嗟に顔を庇った手を下ろし、周囲に注意深い視線を歩かせた。蔓延する静穏。雷は、最早影も形もない。空間には、再び空虚な闇が満ち満ちて、その中を一筋、審判の時を待つ霊魂の列のように、映写機の光が渡って行く。銀幕には、太陽を食し、やがてその光を我物とした円月が、無垢なる純黒の笑まいを広げている。
何事もない――
そんな風に思える程に――研ぎ澄まされていた。
頬を叩いた温かみ。指で拭って眼を落し、そしてその色を思い知る。それは――確かにあった何事かの色だった。仁は視界を突き上げる。その中心。転がるようにして、スキンヘッドの頭が落ちる。彼はまるで、玉を刺し損ねた剣玉のようにして、頭を宙に持て余す。が、別れを惜しむも縋り付けず、赤い雨に打ち拉がれ、そして重々しく倒れ伏す。
その雨の簾を、透かして見える座席の列。その中央、一つの背凭れが伸びをする。そのように、一つの影が立ち上がる――
影が振り向く、彼女が振り向く――
あいつが――姫。
平馬高校の黒いセーラー服にブラウンのダッフルコート、日本人らしい黒髪のおかっぱ頭、ユニセフが涙しそうな短身痩躯。そして、伊達眼鏡じゃないかと常々思う、トレードマークの丸眼鏡。左手でブイサインをこしらえながら――
「メリー桃スマス――仁くん」
滝川悠は――にっぱりと笑った。苛虐するクラスメートを苛つかせるような、諭す教師を諦めさせるような、あまりにも空気が読めていない、らしい空気をそのままに。そのベタベタで馬鹿馬鹿しい言い間違いに突っ込んでやる芸人魂は、まったくもって湧いてこない。




