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「お久しぶりです。私を覚えていますか、お姫様。いえ――ジャスティスリッパー」
ライダースジャケットのポケットから、ターゲットマークを仕込んだダーツの矢を取り出して、適切な力でもって握り締める。相手が相手だ。切っ先どころか、針の先程でも、その攻撃の意思がちらつけば、即座に撃ち込むべきである。
そのように、わかっていたはずなのに――
相手の動作を――見過ごした。
萌芽が頭をもたげるようにして、ゆったりと差し向けられた、左手の人差し指。そこに取り巻くブラックリングの髑髏の双眸が、緋色の閃光を炸裂させた時には、既に事は終わっていた。頬を、炎の平手で叩かれた。そう思ってしまう程に、強く、熱く、赤かった。左の肩口から右の脇腹にかけて、高々と鮮血が噴き出していた。相手の右手には、相も変わらずに、鞘に納まった日本刀が握られている。わかっていた。あんなもの、相手にとっては脇差だ。攻撃は、あのリング、あの指によって実行される。わかっていた。なのにどうして、見過ごした。傷口に吹き込んで来た痛みを忘れる程に、その目を見開くことに夢中になる。そして理奈は、虚空で冷め行く熱血の中に、その答えを見出した。未知の自分が、この自刃を突き刺したのだ。目を眇め、歯噛みする――どんなに意志が強硬でも、本能は軟弱なものなのかと。
「ゲーム……オーバー」
そんな人間らしい情動をおかしがるようにして、やっぱり相手は、無邪気に笑う。
その弾む吐息に吹かれたトランプタワーのように、理奈の身体が崩れ落ちる。眼前にクリーム色の天井を認めて初めて、彼女は仰向けの自分自身を発見した。「こ、殺される……」あかぎれのように開いた唇から、そんな言葉が滲み出す。しかしその言葉は、我が身を案じてのものでは断じてない――
「相沢さ……逃げてく……挑んでは……最悪の……あなたでは……あなたの……」
しかし、今更ながらの警告は、やはり溢れた血液によって押し流され、空しく床に広がった。
本当に、我がままで生意気で、その癖ふとしたときには甘えん坊で、見かけは高校生以上に見えるのに、残念ながら、中身は小学生以下の坊ちゃんで、それでも漢になろうと頑張っていて――放ってなど、おけなかった。
ちゃんとご飯は食べているだろうか――
お腹が空いては風邪を患う――
恋さえ煩う――
その恋が――叶ってほしいと切に思う。
こんな世の中に未練はなかった。弟が蘇ったとしても、上を向いて立ち止まってしまいそうな、こんな報われない世の中になど未練はなかった。誰を貪ることもなく、綺麗に消えてしまいたかった。けれどもあの人は、そんなステージの上で、恋を叶えたいと言い出した。乳臭いなと嗤った。でもやっぱり、かわいいなと笑ってしまった。彼をロミオになど、その恋を悲恋になど、させたくはなかった。だからこそ、こうして独り、決戦場へとやって来た――かわいいかわいいあの人に、四つのリングを、サンタに代って届けるため。自分の夢を、叶わぬ夢と放り投げ。
自分を想って欲した夢ならば、残らずポケットに入れて来た。自然な芝居をしてみたい、ギターをギャンギャン弾いてみたい、頭を並べるハンバーガーを食べてみたい。けれどもその一方で――『かわいい人』を想って欲した夢は、全部が全部潰れてしまい、ポケットに入れるどころではなく、まるで力んで卵を握り潰してしまったかのように、ただただこの手を汚しただけだった。離婚届を燃やそうとしても小火騒ぎ、世の中の緑化を成そうとしても放牧は増える一方で、決戦で決したものは惨敗に他ならない。
やはり私は、小便臭いクソガキだ――
大人になれない、演じられもしない――
肝心なところで――冷静になれない。
『私と違って、女を演じられないテメェは、ろくな恋をしやしねぇ』大野美香は言っていた。熱くなりながらも、そんな冷たいことを、自分にも相手にも言える彼女が、皮肉ではなく、心の底から羨ましい。そんな心の底に、轢死した子猫の体でこびりつきながらも、それでもどうしても、このように想ってしまう――
まだ、死ぬわけにはいかない――
私が守るんだ――
夢を――そして命を。
しかし、どうあっても、敗者の想いは這い蹲る。闇の足音が、踏み潰さんと迫り来る。瞼が下り、それを透かす光も諦めたように退却し、意識が、後頭部から床へと染み込んで行く。転がされたボトル、漏れ出す美酒、その最後の一滴まで、漏れなく舐め取る蛇の舌のようにして――
「きゃふふふふふふふ…………」
その笑い声は――床の上を波打っていた。




