3-15
「いや……これにはわけがあって……よくあるだろ……わくわくで眠れなく――んんっ!?」
聞き覚えのありすぎる声が馬鹿に大きく響き渡ると、千尋の顔が、染み出た闇の中に溶け入った。すぐさま新しい光が見えて来る。その朧げな冷たさは、何の面白みもない夢物語のエンドロールだった。未だ起床を拒否する能無しの頭が、何かしらの意図を紡げるはずもない。その瞳は、ただ徒にぐらつく頭に手玉に取られ、右へ左へと転がった。見るともなく見ている周囲の断片的な光景を、パズルを弄ぶように繋ぎ合わせると――自分は公衆便所の個室の便座に座っていて、陽はとっぷりと暮れているという、そんな現実が描かれる。公衆便所の外に設置されているらしい常夜灯のおかげで、どうにか視界が明かされる状況だ。
一体何が、どうしたってんだ……。やっと思考回路を開いた仁は、更なる情報を求め、便器から腰を浮かす。しかし腰どころか、尻さえも浮くことはなかった。立ち上がるどころか――身動き一つ、できなかった。眼を落とせば、その脚が、幾重にも巻き付けられた鎖でもって、便器に固定されている。首を捻っても見ることは敵わなかったが、後ろ手も同じ状況にあるらしく、手首に金属の冷感が食い込んでいる。
一体何が、俺の身に起こったってんだ――
便器の上で、気張りに気張る――
その結果――怒りの炎がひり出された。
「あんのどら猫が――橘の野郎、裏切りやがったな!」
釣り針を刺されたミミズの如く、便器の上で踠きに踠く。それでもしっかりぎっちり巻かれた鎖は、涼し気な忍び笑いを浮かべるばかり。
「リングリング――俺のブラックリングはどにあるっ!?」
どら猫らしく、理奈が持ち去った可能性を考えなくもなかったが、頼みの綱はそれしかなかった。祈りが神に通じたのか――ブラックリングは、変らずジャケットのポケットに入っていた。銛を刺されたウツボの如く、便器の上で、踠いて踠いて踠きまくる。肉を裂き骨を削るような痛みが、手首と脚を弾圧する。この痛み、万倍にして返してやる! 理奈への憤怒を原動力に、ポケットの中で、ついにその手がリングを掴む。そのまま手の内で転がして、人差し指に嵌め落とす――
「アノーイング!」
リングを使えば百人力だ。伝説の極道・大葉恭司の前では、鎖などはスパゲッティに等しい。その体術の記憶を引き出し、ウザい束縛を引き千切る。解放されると同時に、大の字になって立ち上がった仁は、呼吸を整える暇も惜しみ、スマートフォンを取り出すと、現在の時刻を確認した――
午後6時15分――
パーフェクトな遅刻は――正夢だった。
今頃理奈は、サックガーデン加護江ショッピングセンターにて、救済細胞を相手取り、互いのブラックリングと夢を賭け、ドンパチを演じていることだろう。ついに聞き損なったあいつの夢などは、酒池肉林にお菓子の家を建ててくれだとか、どうせその類のものに決まっている。全てのリングが揃う決戦場。そんな投げ入れられたマタタビに、あのどら猫は跳びついたのだ。目の前に落ちたお魚を、咥え去ることも忘れる程、先走った酩酊に支配されたのだ。




