ある少女の憂鬱と第一の男
お伽噺の中に出てくる王子様は世の乙女の永遠の憧れである。
特に日本の女性は、その言葉に多少なりとも幼い頃には胸をときめかせた覚えがあるだろう。異国の王子様に。
どちらかと言えば自分は戦記などに胸躍らせていたが――ということは置いておいて。
現実とはこんなものだろうな、と諦めることがこの世界に来てから多くなったように思う。
「ミオ、一番好きな食べ物は何だい?」
「うーん…お菓子かなあ…」
「そうか。でも、お菓子ばかりでは栄養が偏ってしまうからね。他には?今日の夕飯はミオの好きなものを頼もう」
「んーと……」
にこにこと微笑む顔は、甘いという言葉が相応しい。
言うなれば言葉にし辛い程の美形、という容姿の青年は、春の陽光にその艶やかな銀の髪を煌めかせ、海の色をした瞳を優しげに眇めていた。
青年の名はルーゼリアス・リヒトヴァイン・ゼクス。この国の王太子である。
外見や穏やかなその物腰は、乙女の憧れの王子様そのもの。
現在、彼は巫女と立派な庭園の東屋でお茶会をしていた。
そして、お茶受けを美味しそうに食す巫女の、顔に掛かった黒髪を自然な動作で耳に掛けてやっている。
ぴく、とその動作に反応した人物がいたが、肝心の巫女は気にも留めていないので、無言と不干渉を貫いた。
「何でも好きだけど……お魚が食べたいかも」
「そうか、じゃあ今日は魚料理にしよう。――ミオ、ジャムが付いているよ」
しかし、次にその長い指が巫女の口元に触れ、ジャムを拭い取った瞬間、彼の人物は苛立ちを露わにした。
何しろ、ルーゼリアスはその手をそのまま自分の口に持って行ったからである。
純真な巫女は羞恥することもなく、ただ首を傾げた。
「ルー、食べたかったなら、俺の食べ滓なんかじゃなくて新しいのあげたのに。汚いよ」
「ああ、ついね。不作法ですまない。じゃあ、ひとつもらおうかな」
はい、と差し出された小さな菓子。
それを青年は、手で受け取るのではなく、直に口に含んだ。――ついでに、巫女の指の先も。
瞬間、微かな金属音がして、抜かれたのは白に近い銀の刃。
犠牲になった自身の髪の一筋がはらりと舞って、ルーゼリアスは冷や汗をかいた。
「…殿下は随分と小賢しく、失礼なことをなさるんですね?」
額に青筋を浮かべながら微笑む少女は、全身から殺気を迸らせている。
何が「つい」だ。明らかにわざとジャムを口にしただろう、この変態が。しかも菓子を差し出すのまで見越してセクハラしやがってこの野郎。
――顔面にそんな暴言を書き連ねた巫女の騎士は、手にした魔剣に更に力を込めた。
斬られそうになったのを紙一重で避けた王太子は追撃の気配に流石に焦り、胸の前に両手を出した。
「ま、まあまあアリス。落ち着いて。これは単なる愛情表現の一つで…」
「へえ…恋人でもない相手にそんなことをするのが愛情表現と。この国の男性は随分と不誠実なんですね」
「いや、一応私はミオの恋人候補だし…」
「――そういえば、先日の夜は命拾いなさいましたね?」
反論など耳を貸さず、有空は言葉を続けた。
恋人候補などと言うのは彼らが勝手に言っていることで、本人はそう思っていないと知っているから。
良い人たちだなあなんて、のほほんぽややんと思っているのだ、無垢な巫女――海央は。
つくづく、巫女が絶対不可侵な存在で、婚姻など出来なければ良かったのにと思う。
歴代の巫女はほとんど結婚していたそうだ。何ともこの世界の恋愛観の大らかなこと。浮気などはあまり許されたものではなく、基本的に一夫一婦制だそうだが、異性同性は関係ないらしい。
海央が望むなら弟のパートナーは同性でも構わない。しかし、どうにも純粋すぎるのか、海央は恋をするまでに恐ろしく時間がかかるような気がする。というか、一生しなさそうだ。
人を疑うことを知らず、ぼんやりとして隙のありすぎる海央は、一度既成事実を作られてしまえば、そっか自分はこの人が好きなんだといつのまにか丸めこまれて、勝手に結婚させられるに違いない。
それを悟られているようで、時折、夜這いに来る人間がいるのだ。
この王太子はまさにその筆頭だった。
「次は斬っても構いませんよね?」
とってもイイ笑顔で有空は言ったが、背後からそれを止める声がした。
「――殿下が悪いのはわかるが、この国の王太子を易々と斬られても困る」
渋い顔で言ってきたのは、彼女が(ほぼ無理矢理)教えを請うた剣の師。
ルーゼリアスの乳兄弟であり、王太子の第一護衛騎士たる、黒髪に赤い瞳の年若い青年だった。騎士長に次ぐ実力の持ち主だそうだ。
「…カイル。そうは言っても、いい加減にしてほしいんだけど」
「…二人がこちらに来た当初よりは落ち着いただろう。頼むから、王族殺害はやめてくれ」
苦労してるな、と有空はふいにこの師が不憫になった。
割と常識人のようだと思ったのが彼を師に選んだ理由だったが、最近の彼はどうも溜め息ばかりついているようだ。気持ちはよくわかる。自分の主が自ら危険に向かって行っているのであれば、護衛としても嫌になるだろう。しかもその理由が夜這いである。
押しかけ弟子にしてもらった有空は、同じ苦労人仲間として、剣を教えてくれた礼として、いつもこの青年には多少譲歩していた。
「――わかった。ここに居られると手が滑るかもしれないから、消えてくれる」
「…ああ」
殿下、行きますよ――そう言って彼が主人を引きずっていくのは、いつもの光景だ。
最近、彼には警戒するような目で見られることが多い。心配しなくても、滅してやりたいとは思うが、そう簡単に殺人者になる度胸はないので――というかあんな輩のために手を汚したくはない――大半は杞憂なのだが。
つい、苦労しすぎて禿げないかなとか失礼なことを考えてしまう有空だった。
さて、害虫は消えた。
「…海央、手がお菓子で汚れてるわ。拭こうか」
先日のように濡れた布を手にし、指の一本一本を綺麗にしていった有空の様子は、周囲からするとどこか鬼気迫っていたという。
王太子登場。一人目ですね。




