ある少女の憂鬱と勤労
――――男は皆、狼だ。
それを初めて言った人は実に正しかったのだということを、マンホールに落ちてから実感した。
双子の片割れの服を掴んだままに落ちた古いマンホールの穴が通じていたのは、嫌な臭いのする下水ではなく、異世界だなんて地球の誰が信じるだろうか。
元々、小説や漫画の類を読むのは好きだったから、分類として「異世界トリップ」系の話が日本には数多く存在することは知っていた。
異なる世界の存在を信じていたり、今の現実よりは素敵な場所があると夢見る人は多かったと思う。自分は、まあそんな非現実的なことに巻き込まれる要素はなかろうと日々を過ごしていたのだけれど。
まさか、こんなことになろうとは。
「…巫女様におかれましては、ご健勝でいらっしゃることをお喜び申し上げます。いつお見えしてもお美しい…どうか私にも、その麗しい瞳に映らせて頂く栄光をお与えくださいませ」
延々と口上を述べる男はまだ若い。
確か、どこぞの貴族の長男だったかと思う。
男は柔和な笑みを浮かべると、敬意を払うように、勝手にその白い手を取り、唇を落とそうとし――ひやりと頬に触れたものに気付いて、硬直した。
そしていつの間にか、触れていたはずの巫女の手は彼の手から消えていた。
「――お客人、失礼ですが、巫女に容易く触れることは禁じられているとお聞きしていらっしゃいませんか?」
低く呟かれた声音と、巫女に良く似た顔に浮かべられた笑みは凄絶で、男は呼吸が止まりかけた。
あっという間に麗しの巫女は視界からいなくなっている。
目の前に立った少女の、剣呑な空気があまりに恐ろしくて、男は微動だにしなかった……否、指先を動かすことすらできなかった。
そしてそのまま、我に返る前に、屈強な護衛達によって、その場を追い出される。
男の言動は侍女達から別の者に伝わるだろう。
社会的にどのように制裁されるかは、自分には関係ないと、有空は銀の魔剣を腰に戻した。
「…あーちゃん、俺、手汚れた?」
姉が濡れた布でごしごしと手を拭ってくるので、海央は不思議そうにそれを見て問う。
有空は先ほどとは一転して柔らかな笑みを浮かべ、言った。
「おやつの時間になるでしょ。雑菌がついてるかもしれないから」
そう言った瞬間、食べ物で頭が一杯になったらしい海央はきらきらと目を輝かせていた。数秒前の疑問は頭から吹っ飛んでいる。
本当に可愛い子だ、と思う。
これが十六歳の男子高校生だとは、言動からは想像もつかないだろう。
だが、海央は意外にも共学だった高校に溶け込んでいたし、勉強も割と出来た方だ。
――体育はさっぱりで、教師達を悩ませていたけれど。
……授業中もよく寝ていて、担任の頭痛を引き起こしていたけれど。
髪も短く骨格は少年のそれだが、それ以上体型ががっちりすることはないだろうという海央は、外見がとても少女めいていて、私服の時は絶対に女に間違えられていた。
向こうにいた時から確かに同性を惹き付けていた弟だが、それでもこれほどではなかった。
あの四人を筆頭に、危機感のない海央に寄ってくる虫――しかもオスばかり――をもうどれ程叩き潰してきたことか、覚えていない。
異世界に落ちた途端、あれよあれよという間に海央は巫女として祭り上げられ、やんごとなき御方としての身分を手に入れた。
巫女はともすれば王家の人間よりも立場が上らしいが、私はただの姉というだけで、力などない。
一目で海央に惚れたらしい男共が海央にあの手この手で迫ろうとするのを止めに入ったことは、普通なら不敬罪ものだっただろう。
実際、投獄されかけた。
けれど海央が止めたのと、いつの間にか私の右手に浮かんでいた不可思議な剣の形をした紋様に気付いた周りが逆に慌てて、私を「巫女の騎士」だと言ったのだ。
「巫女」は、世界を保つための鍵。大地にただ存在するだけで、世界は落ち着く。
特に神秘的な力を持ったとかそういった特別なオプションは一切ない。
力など何もない。
だからこそ、巫女には自分を護るための特別な騎士がいる。
己の身を護る力すら持たない巫女だから、その身を護るために、強い力を持った騎士が必要だったのだ。
人の子として生まれた瞬間に、神から与えられた力を使って、無意識の内に巫女は騎士を選ぶのだという。
私は恐らく半身として生まれ、最も近い位置にいたから選ばれたのだろう。
騎士になると、巫女を護るに相応しい力が与えられるのだとか。
地球にいた時は、右手の甲に紋様なんてなかった。
運動は出来た方だけれど、自分より凄い子はたくさんいたし、一般女子の枠を出ていなかったはずだ。
それが、以前よりも遥かに身体能力が強化された。端的に言えば成人男性を簡単に薙ぎ倒せるような力だ。
ぎょっとするような怪力を得たことや、日本語とは違うこの世界の言葉を何故か解することが出来たことなど、それらは全てこの紋様の――巫女の加護の――お陰だというが、どうにも半端である。
巫女を護るためには強き力が必要だったのなら、初めから完璧であればいいのに、身体能力が異常に向上したこと以外、ほとんど私は変わっていない。
海央はすんなりとこの世界に溶け込んでいたけれど、私は学ばなければ文字が読めなかったし、竹刀や木刀を握ったことはあれど、「騎士」の命と言える剣だって直に見たこともない。
仕方ない、ゆっくりと慣れていけばいいのだろうかと思っていた異世界生活初日の夜に、安易な考えは瓦解した。
私の部屋は、海央の隣に用意されていた。
何だか落ち着かなかったらしい海央が一緒に眠ろうと言ったので、海央の部屋の、大人が五、六人は眠れるような妙に巨大なベッドで仲良く眠りに就いて暫く――妙な気配を感じて目を開けた私の目に飛び込んできたのは、すよすよと眠る、天使のような寝顔の海央を食い入るように見つめる四つの人影。
しかも王太子だとか名乗っていた銀髪は、今にも海央に口づけを落としかねない様で――ぷつん、と頭の中で何かが切れた音を聴いた。
気付けば、ドアの前に仁王立ちになって、恐ろしく低い声で、足元に簀巻きになった四人を踏みつけながら、これを引き取れと護衛の人間に言い放った自分は、今考えれば「騎士」としての本能が暴走していたのではないかと思う。
普段出したこともない火事場の馬鹿力を使って男共を叩きのめし、手近にあったシーツやら布やらで縛り上げたので、次の日は体中が悲鳴を上げていて、寝込んだ。海央が心配して付き添っていてくれたので――共に眠っていただけだが――その日は妙なちょっかいを出されることもなく終わり。
その翌日から、昼夜を問わず海央に群がる男達を追い払うことが始まり、私は海央の番犬のように、正しく巫女の騎士となったのだった。
剣の師を無理やり見つけ、何かないかと宝物庫を探して魔剣を手に入れ、教養を習い人間関係を把握し、日々鍛錬を怠らず、騎士の鏡と言われるようになった。
………そう、煌びやかな女性の服とは無縁に、国王から下賜された純白の騎士の正装ばかり纏っていたことから、同性とわかっているはずの女性陣から密かにアプローチを受けることになるとは、思ってもいなかった。
動き回るのに正直スカートは邪魔になる。せっかく動きやすいなと気に入った小姓の服も、それだけは着るなと言われたので――品性が疑われるとか何とか――、仕方なく数着もらった騎士服を普段着代わりにしたり、城下の女性が着るような服や男物の服を調達して着ていたのだ。妙に自分は凛々しく見えたらしい。
スーツを着ると三割増しに格好良く見えるとか言うのと同じ原理だろうか。
誰よりも素敵な騎士だと、うっとり夢見心地に言われたことは忘れられない。
私だって女の子だ、一応。
それなりに、平凡に恋をして結婚して子どもを産んで――なんて漠然とした夢はあったはずなのだけれど……怪力になったり騎士になったり、求めていた平穏から遠ざかったのは何故だろう。
原因といえば海央が原因なのだろうけれど、誰より大切な半身を恨むなんてお門違いだ。
巫女の騎士として働けば働く程、男は皆狼なのだと知った。
もう当分、恋愛なんてしなくていい。
取りあえず暫くは、弟を護ることを第一に考えよう――そう誓って数カ月。
状況は一向に変わらない気がする。
とりあえず、一言。
労働基準法違反と精神的苦痛を与えた罪で、この国の男共を全員起訴してもいいですか。