拝啓。
拝啓──。そう書いて、
何かを押し殺したような雲り空
そこからの先の言葉が紙の上で、筆を止めた。
拝啓──。
そこからの時間は、重たい黒い雲が風に押しやられてカタチを変えるように。
そこまで書いて、やっと、それ以上進まない止まったままの私の手の中に握られた筆の先から目を離し顔を上げることが出来た。
「霙──」
家の納戸を書斎にした私の小さな窓ガラスに、水滴とも違う、まるで心を追いかけてくるように音を立ててぶつかる
白い塊が、溶けて流れる。
ボーッと、少しの間、その様子を眺めていたのだが、人の涙よりも美しいなとさえ心に留めおいた。
単純な話、人の涙は、そこまでカタチに目に見えては、流れてはくれない。
私の小さな書斎の窓ガラスにぶつかって、天から降り落ちた白い霙が溶けて水滴に変わる方が、より印象的で美しく稀有とも言え、
何よりも、私の目の前で他人が泣いたという事実は過去を遡ってみても、いっさい無い。
後にも先にも。
私の知る範疇では無いが。
今は、昼時──とさえ言いたいのだが、
それから、飯を食い、昼寝をして
夕方に起きて酒を飲み
欠伸をしていたら、夜半過ぎになってしまった。
拝啓──。
この言葉は、誰に宛てたものだろうか。
遺書のようなものを親愛なる者へと
年末の年の瀬に、真冬のような心を紛らわせようと
詩人などと小説家にでもなったような面持ちで、
筆を握った次第なのであった。
拝啓──。
言葉も文字も続かない。
どうやら、詩人とか小説家とかいう職業は、
私の想うよりも思いのほか大変なようだ。
少しの咳払いをしてから目を閉じる。
何を食ったのか想い出せない夕飯から時計をみると
時計の針は右回りにもほどがあるというほどに、
私のいた小さな小汚い書斎をそのままにしたまま
置き去りにしていたようだ。
拝啓──。
誰に宛てたのか、自分に宛てたのか、
つかみ所の無い煙のようなものをカタチにしようとしても
気持ちは隠されるように晴れないし、気の利いた歌も浮かばない。
タバコを吸いに玄関の外へと出た。
「寒──」
空気と夜空だけは澄みきっていたようだ。
カシオペヤ座とかオリオン座とかであろうか
ロマンティックとは対称的な現実にありながらも、それを追いかけてきたいとさえ想う心が、私を追い越してゆく。
拝啓──。
そんな風に想う今。
けれども、それよりも冷たい空気が私を再び家の中へと押しやる。
霙は、昼に降っていた出来事で、今さら夜に止んでいたことに気付く。
拝啓──。
繰り返される主題は命題へと置き換えられる。
それゆえ、何なのか
私は、紙の上で、停止していた時間を動かすように
深く言葉を探して潔く海に出る。
拝啓──。
こんな夜更けにも、甲板に凍える手をかじかませて、海に漁に出る人がいる。
それとは、関係なしに
思い思いの空を飛ぶ夢の時間。
私は、まだ起きている。
拝啓──。
言葉の先は、未来の先。
果ては白くて、誰にも分からない。
いつか、君の握ってくれた手──
そんな何かを言葉にしたくて、書けないままに日付は変わった。
拝啓──。
誰の魂をさえ震わせることの出来なかった夜
私は、案の定
孤独な私自身のそれを震わせて眠るのだ。
現実に襲われないように、夜に身体を巻きつけて風邪引かないように夢を見る。
冬空のように
私は──、
拝啓──。
温もりの最中に、あなたに出会った夢を見た。
いつかの続きを言葉にしたくて
白い紙の上で、止まったままの世界
君と描いていたいんだって──
──拝啓。
敬具にしたくなくって、終わらない。
終わらない言葉を口にしたくて、伝えたくて、また、
真夜中の時計が、気を利かせて
どうやら、ゆっくりとだけど、
右回りに針を動かすように、音を立てずにぶら下がっていた。