8.きみがいる世界
見える。こんなに近くで。
「やっ、ちょっ……、な、なんとかして……。」
ヨシノの幻覚は両手で顔の周りの空気をかき乱すようにパタパタと振りだした。何の意味があるのかよくわからないが、そういえば焦った時にはよく身振り手振りが大げさになったなと思い出すとほほえましい気持ちになった。
「なんとかって?」
「み、視えるんでしょ?どうにかしてよー……。」
そして今度は泣きそうになる。見られるのが嫌な幻覚とは一体。見られてこそ幻覚の存在意義なのだと思うのだが、もしかしたら心の奥底では正気に戻りたいと思っていることの表れなのかもしれない。
できれば、諦めがつくまで見ていたい、会いたい、話したい。でもこれ以上は危ないのだということも、わかる。すでに幻覚と会話してしまっているし、たぶんここらへんが潮時なのだと思う。奇しくもヨシノの姿かたちをしたものに諭されると、それが彼女の思いのように感じられて自分を律する糧となる。こんなに腑抜けてしまったところを、遠くの彼女には見せられない。
「わかった。これで最後にするよ。」
自分に言い聞かせるようにして腹筋で上半身を起こすと、狭い部屋の中で二人の距離が一気に縮まる。立ち上がって近づくと、思わずといった感じでヨシノが一歩後ずさる。きっとこれは、自分の最後の足掻きだ。
「消すから。」
「う、うん……。」
土壇場で怖気づかないように自分に宣言すると、幻覚が右手を差しだしてきた。
これに触れたら、消える。幻覚に実体がないと感触で理解してしまえばきっと、今後見えることもなくなるだろう。未練がないと言えば嘘になるが、きっとこんな状況はヨシノも望んではいない。
「でも、できれば夢にでも出てくるといいな。」
「はっ?!やだよ!何それ怖っ!」
ささやかな望みのつもりだったのに、ヨシノは恐ろしいものでも見るような目で凝視してきた。ああ本当に、幻覚のくせに何一つ思惑通りに動いてくれない。でもそれが、本当に本物の反応らしくて可笑しくなった。
「……じゃあ、元気で。」
別れるときに言いたかったことは多分もっとたくさんあったはずだけど、とっさに言葉になったのはそれだけだった。それから、差し出されている右手を無視して目の前の幻覚を両腕の中に収める。最後だしこれくらい許されるだろうという欲望を込めて。
・
差し出した右手が変な風に固まった。だって急にクリストが抱きついてくるから。
「……、……、」
正直変な声が出そうなほど驚いたけど、これは除霊作業なのだと言い聞かせてじっとこらえる。先ほどまでの恐怖もどこへやら、霊、移ってラッキーだったかもなんて考えてしまいそうだった。いやいやこれ、除霊だから。でもラッキー。
ヨシノがすっかり幽霊のことから意識を離していると、不意にクリストが巻き付けた腕に力を込めた。
「っ、」
ガラス細工を包み込むようにふんわりとしていたものが体の線を確かめるようにぎゅうと抱きこんできて、反射的に全身がびくりと震えてしまう。クリストの髪がほっぺたに触れてくすぐったいし、何より近い、近すぎる。今度こそ我慢できなくなって身をよじると、案外あっさりと解放された。……終わったんだろうか。
「除霊、できた?」
ぽかんとヨシノを凝視したままのクリストに、手持ち無沙汰に髪を撫でつけながら、赤い顔でなんとか訊ねる。「本物……?」と放心したように呟かれて、
「本物だよっ!」
ヨシノは憤慨した。今さら本物の幽霊かどうか聞くとはどういうことだ。さっきまでの深刻そうな態度は一体何だったんだ。もしや、あの友人と共謀してヨシノをびびらせて面白がっていたのでは。……ありうる。こっちはめちゃくちゃ怖かったのに。
「え。いや。お前、なんでいるんだ?」
憤るヨシノについていけないという風にクリストは目を白黒させている。
「だからっ、」
霊が憑いたからクリストになんとかしてもらおうとして来たんだと言いかけて、そうだ幽霊騒動は騙されただけなんだということに思い至る。本来の目的は、王都観光の計画を立てようとして来たのだった。クリストは全然会いに来てくれないから怒ってるのかもとちょっと心配までしていたのに、それなのに、こんな、こんな。
騙された悔しさに涙目で睨みながらまくしたてると、クリストは空を仰いでそのまま背後のベッドにひっくり返った。がごん、と結構すごい音がした。
「いって……。」
「うわ、何やってんの。大丈夫。」
ちょっと覗き込むと、「なんかもう無理かも」と言って両目を覆っている。そんなに疲れているならこんなことしていないでさっさと寝ればいいのに。大人のくせに子供みたいないたずらするんだから。
そう思うと怒りよりもアホだなあ、という感想が湧いてきて、ヨシノはため息だけですべてを水に流してやることにした。アホなクリストなんてちょっと貴重かも。またしても得した。
「もう、ちゃんと寝なよ。また出直す。」
ベッドから起き上がれないクリストに声をかけると、消え入るような声で悪い、と返ってきた。本当に疲れているだけで、ヨシノのところに来なかったのもこんなに疲れるほど忙しかっただけで怒っていたわけじゃないんだなということがわかって、それだけでもだいぶ心が軽くなる。
聖女様扱いは終了してしまったけど、こんな風にクリストの生活圏を垣間見れたり好きに出かけたりできたりするならこっちはこっちで悪くないな、と楽しい気分になってヨシノは魔術塔へと帰っていったのだった。