再会、そして (了)
深々と雪が降り積もる中、とあるコンサートホールは冬らしい新雪を思わせる音楽と静かな熱気に包まれていた。
芸術の街と呼ばれるここバーリは音楽を解す国民性が根付いており、技術への要求は高い。
心地よいメロディーがホールに鳴り響き観衆はうっとりと聞き惚れる。
この楽団では特にオルガンのパートが話題だ。
最近加入した大人しめの美しい麗人がとても気持ち良さそうに音を奏でるのだ。
ーールドラン交響曲第6番
この地方ではクリスマスに演奏されることでお馴染みの名曲にハンナは内心で喜びをひた隠しながら鍵盤の上で指を躍らせる。
1年前、すっかり疲れ果てたハンナは結局学園を辞めて正式に元第3王子との婚約を破棄することになった。
予想されていた王やその側近たちの反対もなく無事自由の身となったハンナは自分のやりたかった音楽の道へ進むことを決めた。
ハンナの希望によりグローヴァー家のコネクションを使わずに実力性の試験を受け、彼女は現在とある中堅音楽団の一員となっていた。
連日の猛練習でめきめきと実力を伸ばしたハンナは今では音楽団の顔の1人である。
音楽を奏でることは心地よい。
何より観客が喜んで自分のメロディーに聴き入ってくれるこの瞬間がハンナは1番好きだ。
自分のパートが終わっても響き続ける美しいシンフォニーに聞き入り、ハンナは密かに幸福に酔いしれる。
演奏に失敗すれば酷評され、上手く奏でられれば正当に評価される。
周りの人間と切磋琢磨しながら好きな音楽を続けられる今の環境にハンナは大いに満足していた。
一年前に元王子とその取り巻きからの嫌がらせに耐えていた惨めな自分とは全く違う。
世界を飛び回りコンサートを重ねる内に自信もついた。
しかし、それにしてもすんなりと第3王子との婚約破棄が成ったことにハンナは疑問に思っていた。
……後に聞いた話によると裏にはあの人の尽力があると言う
演奏が終わり、万雷の拍手が壇上の楽団を包み込む。
ハンナも立ち上がり慇懃に頭を垂れるが、ふとその動作が止まる。
目の端にあの人の影を捉えたからだ。
(……ああ、いらしてくれたのね)
ハンナは一年前のことを思い出しながら柔らかく微笑み、そして恩人と観客に向けて礼儀正しく頭を垂れた。
演奏が終わり楽屋で団員たちは満ち足りた表情で思い想いに懇談をする。
コンサートが上手くいったことは観客たちの反応がそれを何より物語っていた。
やがて団長は皆の前に立ち両手を叩いて耳目を集める。
「ありがとう、君たち。クリスマスの演奏は大成功だ」
一斉に歓声が上がり弛緩した空気が流れる。
ようやくクリスマス休暇を迎えられるのだ。
笑顔を見せながら団長は満足げに団員たちを見渡す。
「さてさて、伴侶がある者以外は食事会に行こうか。家族や恋人がいる者は急いで帰宅するんだぞ。クリスマスだからといってうわついてふらふらと浮気することはこの私が許さんからな」
そしてまた思い思いに懇談を始める。
クリスマスや年末をどう過ごすか、今日のコンサートの給料をどう使うか。
家族の様子などなど。
そんな中、ぼうっとしていたハンナは1人の団員に話しかけられる。
「ハンナさん、お疲れ様。貴女もクリスマスパーティーに来ます?」
「……本当にすみません 実は待たせている方がいるので」
ハンナは済まなさそうに手を振る。
観客の中に見つけたあの2人は恐らくこの後自分に会いにきてくれるだろう。
「そうか、妬けますね。恋人ですか? 残念」
ハンナはかぶりを振りながら答える。
「いえ、そういうわけではないのですが…… ではすみません。皆様、失礼します」
団員たちはある者は残念そうに、またある者はうんうん若いものな、と訳知り顔でハンナを温かく送り出す。
「そうか、いいお年をなハンナさん」
「ありがとう、いいお年を」
居心地の良い楽団で助かる。
ハンナは笑顔で仲間に挨拶すると急ぎ足で窓から見える馬車へと急いだ。
マフラーから白い息を吐きながらハンナは見知った人影に声をかける。
「ミリーさん……」
演奏を終えたハンナを会場の近くの道で待っていたのだろう。
馬車の横に立っていた白い礼服の真っ白な陶器のような肌の麗人は整った黒い髪を北風に靡かせ去年と変わらず佇んでいた。
ミリーはハンナが来たのをみてとるとニコリと微笑み手を胸に当て慇懃に頭を下げる。
「ハンナさま、お久しぶりですね。演奏お疲れ様でした。お元気そうで何よりです。主人のヨセフからは貴女が時間があるようでしたらお誘いするように言われていただけなのですが、楽団のパーティーはよろしいので?」
「……いえ、楽団の皆とはいつでも会えますので
ミリーさん、一年前はお世話になりましたね。貴女たちのご親切は忘れたことはありません」
そう、彼らが居なければ今の自分は無い。
音楽の道へと歩み出してはいなかっただろう。
ミリーは柔らかな笑みをハンナへと向けた。
「いいえ、どういたしまして。それにしてもいい演奏でしたよ。これはお世辞ではなく思わず聴き入りました」
演奏を褒められハンナは照れながら麗人の黒い髪を見つめる。
雪と服の白さとのコントラストが去年と変わらぬ美しさだ。
「……ありがとう
あの、ヨセフさん、いえヨセフ様とお会い出来るのですか?」
そう、この場にヨセフが居ない。
もう帰ってしまったということだろうか。
「ヨセフでよろしいですよ。ええ、ヨセフは向こうのお屋敷で待っております。夕飯を作るのだと張り切って先に帰ってしまいました。来て頂けますか?」
そうか、ヨセフの料理を食べられるのか。
ハンナは嬉しそうに微笑み首を縦に振る。
「もちろん、喜んで」
馬車に乗り込んだ2人はしばらくして取り止めのない雑談を始めた。
窓からはバーリの街並みが見える。
夕焼けに舞う粉雪に笑顔で行き交う洒脱な服装の人々がクリスマスの風情を楽しんでいるようであった。
ハンナはあれからあの晩に出会ったヨセフと名乗る不思議な男性について調べてみた。
この世にはヨセフという名の男性はごまんといるが、ハンナの探し求める条件に合うヨセフという名の男は1人しか居なかった。
ヒーズル連合国外務大臣ヨセフ・ファンデルト・ヒーズル。
物腰も柔らかく眉目秀麗。
実務能力も高く魔力も高いのだが、どこかの国に派遣される度に気に入った料理屋のシェフにその調理法を教わるという奇行癖のある料理バカであるという噂も有名だった。
……しかし彼で間違いない
ハンナは向かい合って座るミリーに尋ねる。
「ミリーさんは本当はヨセフさんの部下の方なので?」
会話の流れやハンナの表情から彼女が自分たちの正体に気付いていることを察し、ミリーは微笑む。
「はい。本当はヨセフの秘書官を勤めております。身分を偽っているつもりはなかったのですが結果的にハンナ様を騙してしまいました。申し訳ありません」
申し訳なさそうに頭を下げるミリーをハンナは両手を振って制する。
「いえ、謝らないで。あの時はあの方も本気であのお店で学ぼうと懸命に働いておられたのでしょう。ヨセフさんはご自分で料理が好きであのお店の店長を尊敬していると仰ってました」
「そうですか。そんなことを。ヨセフは本当に料理バカで。あの時もお仕事として王国に派遣されていたのですが、真っ先に貧民街のあのお店に弟子入りに行った次第でして。秘書官である私もそれに付き合わされることになりました。変わった方で困っているのですよ」
そう言ってため息を吐くミリーにハンナはクスクスと笑った。
「まあ。ですがそこが魅力とミリーさんも思っておられるのでしょう。ですから秘書官を勤めておられる」
ミリーはハンナのその言葉に花のように笑った。
「ふふ。コメントなしとさせて頂きましょうか。さあ着きましたよ」
そうしてグレーと白を基調としたこじんまりとした屋敷が見えてくる。
別邸とはいえ一国の外務大臣の屋敷だとは思えないほど庶民的で、しかし外観が整ったお屋敷だとハンナは思い微笑んだ。
「あの方らしいシックなお屋敷ですね」
幾人かの執事やメイドに案内されるまま、一室に通され、扉が開かれる。
一年振りの懐かしいあの長身の優男が机から立ち上がって慇懃に頭を垂れて挨拶してくれた。
「お会いしたかったですよ、ハンナ嬢。一年振りですね」
整った黒い髪に端正な目鼻立ち。
ヨセフは少しハンナに歩み寄ると変わらぬ白い歯を見せる。
その紳士さと内に秘めた情熱を感じ取りながらハンナは深々と頭を下げて昨年の礼を述べた。
「こちらこそ碌にお礼も出来ずにご無沙汰しておりました。一年前はお世話になりました。お久しぶりですね、ヨセフ様」
「出来れば呼び捨てで。ご無理ならせめて『さん』付けでお願いします。今日は来てくださってありがとうございます。そして素晴らしいコンサートでしたよ」
「分かりました。ヨセフさん。お褒めに預かり光栄です」
そうしてハンナの故国であるザマァサレルのことについて話題が及び暫く歓談が続く。
……ザマァサレルはあのクリスマスの数ヶ月後王が退位しその嫡男が後を継いだ
噂ではヨセフが王の退位に関与しているとのことだったが噂の域を出ない情報だった。
やがて2人はヨセフの私室を出ると彼のエスコートで食堂へと向かう。
そろそろ夕飯の時間だ。
歩きながらハンナはその背に尋ねる。
「ザマァサレルのご公務はもう終わられたのですか?」
「ええ、あの後すぐに。なかなか店長に会えなくて残念ですよ」
2人は一年前のクリスマスのあの店の庶民的で温かいパーティーのことを思い出す。
あの小さなカップルは今も元気だろうか。
「それは残念ですねえ。またご一緒に行けませんか?」
横顔をランプの橙の灯りに照らされヨセフはそっと振り返り微笑む。
「ぜひ喜んで」
食堂のテーブルに向かい合って座るとハンナは聞きたかったことを尋ねてみる。
何しろあの後、学園の教師やあのバカ王子以下A組のクラスメートがことごとく憂き目に遭ったというのだ。
詳細は噂や推測の域を出ない。
「それにしても大層な怒りっぷりだったらしいですね、学園の教師の首が丸ごとすげかわったそうでそのお話を聞いた時は驚きましたよ」
ヨセフは眉根を下げ、決まりが悪そうに目線を逸らす。
やはりヨセフが学園の「丸ごと首すげ替え事件」に関わっているようで本人もオーバーキルだと思っているらしい。
「いやいや、ついやり過ぎてしまいましたね。あの後調べてみると思った以上に貴女が不遇な扱いを受けていたそうで力が入り過ぎてしまいました」
ハンナは学園でのことを思い出しながら苦笑する。
やはり冷静の裏に情熱を隠し持っている御仁のようだ。
「……まあ
私にすればもう振り返ることのないお話なのですが、オローカとは距離を置いていた比較的関係のなかった数名のことはもう許してやってください。少し、少しですが寝覚めが悪いので」
ヨセフはハンナの顔を見つめ頷く。
「そうですか。貴女がそう仰るのならそうしましょう。……しかし、あの元王子ときたらどうしようもありませんね」
元王子に話題が及びハンナはため息をつきながらヨセフに詫びる。
「……それがオローカという男なのです
お目汚し申し訳ないですね。元婚約者としてお詫びします」
王籍を剥奪され北の塔での軟禁と労役を課されたオローカであるが、これまで我が儘放題に生きてきたこのお坊ちゃまは罪人のようなこの暮らしに耐えきれず密かに脱獄すると、彼に残された残り少ない資金を使って山賊を雇い近くの村を襲い始めた。
流石は意地汚く性根の腐ったあの男といったところか。
しかし、そんな反抗も数日後には王国の騎士団によってあっさりと鎮圧されることとなる。
「惨めな生活を続けるくらいなら悪の道に堕ちてやる」
「それもこれも隣国のヨセフ・ファンデルト・ヒーズルとかいうクソ野郎のせいだ! 奴のせいで俺は全てを失い野盗にまで落ちてしまった! 地獄に堕ちろ!ヨセフ!」
賊が討伐され捕らえられたオローカはそう喚いていたという。
苦笑しながらヨセフは首を横に振った。
「いえ、そんな。貴女が謝ることではない」
やがてノックの音とともに盆をもった麗人が姿を現し慇懃に挨拶した。
「お待たせ致しました。蟹と帆立のクリームスープです」
相変わらず黒い給仕服が似合う。
ハンナはミリーに礼を述べる。
「ありがとうミリーさん。次は3人でテーブルを並べたいですね」
「そう言っていただけるのも光栄です。では失礼します」
そう言って礼儀正しく下がっていくミリーを見つめながらヨセフは料理の説明を始める。
「給仕と調理は他の者に任せましたが仕込みは私が致しました。まだまだ魔力が制御出来なくてですね。大海獣のように暴れてしまうということはないのですが」
クスクスと笑いながらハンナは頂きます、とスプーンを皿に落とし込んだ。
「大変美味しいです…… 一年前を思い出しますわ」
やはりヨセフの料理を美味しい。
今日のは特にハンナ好みの味付けだ。
ヨセフもまたスープを啜り微笑みながら満足そうにハンナの方を見遣る。
「それは良かった。いつか私自ら料理をしてみたいですね」
「ええ、焦らずにゆっくりと頑張ってください。魔力の制御は大きいほど難しいですから」
やはりヨセフの魔力は大きく、つい力を込めて支度すると料理に生命を与えてしまう。
料理好きのヨセフにとっては中々のコンプレックスでありジレンマだ。
ヨセフは励ましてくれたらしいハンナに向けて微笑む。
「……ありがとうございます」
「いつか貴方のお料理を食べられることを楽しみにしております」
「そう仰っていただけると励みになります」
デザートを共に食べ終えコホン、と一つ咳払いするとヨセフは改めてハンナに向き合う。
「ハンナ様」
ヨセフの畏まった様子をいなすようにハンナは微笑む。
「さん付けでお願いします」
ヨセフは頷いてハンナのブロンドの髪と碧眼を見つめる。
「ハンナさん、我々は別の国同士の人間ですがどうかこれからも時折こうして会っていただけませんか?
……友人としてではなく交際を前提として」
真っ直ぐと見つめてくる褐色の瞳を見つめ返しハンナは熱くなりそうな頬を何とか抑えながら漸く口を開く。
何しろ男性といえばあのバカ王子としかろくに話したことがなかったからだ。
しかもこのように好意を寄せられたことは初めてなのでどうしていいか分からず何とか頭の中を整理する。
19にもなるというのにそう言えば男性との交際など考えたこともなかった。
「ヨセフさん……」
自分の反応に不安を与えてしまっただろうか。少し待たせてしまっただろうか。
ヨセフの少し不安そうな目に申し訳なく思いながらハンナは慣れない言葉を絞り出す。
「私はあの最悪なクリスマスの夜を最高の思い出に変えてくれた貴方のことを忘れたことはありません。ぜひ、また何度でもお会いしたいです」
ヨセフはほっとしたように息をつくとぱっと輝いたような笑みを見せた。
「……これからもよろしくお願いします ハンナさん」
廊下の影から部屋を伺う影があり、一方がほっと息を吐いた。
「……全く奥手過ぎるお二人で焦れましたし、冷や冷やしました」
黒いメイド服に身を包んだミリーは焦れるような2人を愛しそうに見つめた。
横に立つ老齢の黒服の男もうんうん、と満足そうに相槌をうつ。
「まあまあ、しかしヨセフ様も大人になられましたなあ」
ミリーは振り返り男の背を押すとその場を後にする。
「さあ、これ以上は無粋ですよ。今日は上等のワインを開けましょうか、執事長」
深々と降り積もる雪がクリスマスの夜道を歩く人々を祝福しているかのように整備された街並みを覆う。
大聖堂から聞こえる鐘の音と讃美歌は毎年のように変わらずクリスマスの街を白く白く包み込んでいくようであった。