水族館で2
青い水槽を泳ぎ回る魚たちの間をコポコポと酸素を送り込む泡が行き交う。
振り返ったハンナを薄明かりが照らし、陰影がついたその横顔をヨセフはとても美しいと思った。
束の間の静寂を破るようにハンナは水槽を人差し指でなぞる。
「私ねえ、今日は婚約破棄されたの。クリスマスパーティーの真っ最中に。
やんごとなき身分の御方からの要請で決まった婚約で私も頑張ったつもりなのですけど、それでも最後まで相手の方とは折り合いが付きませんでした」
どうやら令嬢が抱えているものはヨセフが何となく予想していたような事情のようだ。
ヨセフは静かな黒い瞳でじっとハンナを見つめ返し黙って話の先を待つ。
「相手の方は…… 高貴な身分の御子息で、そもそも彼には好いた相手がいました。
好みが私とは真逆のようでしてそれもお気に召さなかったようですね。
それで私はとある学園にいる間、彼と彼女に迎合する連中から依怙の扱いを受けました。
身分のある彼の意向や忖度によるものでしょう。
私は学園祭に出ることも叶わなかったし、ありとあらゆるパーティーに出ることも出来ませんでした。
いつだって学園のパーティーはみんなが踊っているのを見ているだけの壁の花。
何しろ彼の横には彼女がいつもいましたから」
貴族というものは自分の意思で結婚相手を選ぶことが出来ない。
政略結婚、自分の家より身分の上の者による命令といったところだろうか。
ヨセフは水槽を見つめるハンナの横に立ち静かな口調で尋ねる。
「……貴女から婚約破棄して別の生き方を探すことも出来たのでは?」
「もちろん、彼の親であるやんごとなき方には何度もその旨を伝えました。
私と彼は合わない、と。
私は別に政治的立場へのこだわりはありませんでしたから。
ですが、先方は私のその申し出を何度も却下しました。
主に私の親の持つ領地の経済力、政治の地盤が目当てだったようです」
ヨセフはハンナの疲れたような目を見つめ頷く。
「ひどい話ですね」
「ひどい話でしょう」
ハンナは苦笑しながら水槽を泳ぐ魚たちを指でなぞった。
「おそらく、今日の婚約破棄は彼の親の取りなしによって却下となるでしょう。
そして、また表面的には私は彼の婚約者に収まる。
そこまで先のことを思い描いて絶望した私は今日、学園を飛び出しました」
コントラストの消えた瞳でそう語るハンナは水槽を見つめているようで何も目に映っていないようだった。
しばらくそうしているとハンナは小さく微笑みヨセフを振り返る。
「……うんざりしながらあのベンチに座っていたところをあなたに拾われたわけです
おかげで楽しいクリスマスを送ることができました。
ありがとうヨセフさん」
眉を顰めヨセフはハンナの顔をじっと見つめる。
「……学園に戻られるおつもりですか?」
「仕方がありません」
さあそろそろ戻らないと、と呟き入り口へと歩みを進めはじめたハンナは表情が死んでいるようであった。
ハンナの背に追いついたヨセフは静かな口調で、しかし力強く告げた。
「貴女はそんなところに戻る必要はない」
ハンナは驚いたように振り返る。
その黒い服の優男はウェイターとして給仕していた時とはまるで雰囲気が変わったように力強い表情でハンナの手をそっと取った。
「こんなに素敵な貴女を愚弄する愚かな婚約者も恥知らずなその愛人も、そいつらに迎合する馬鹿者どものことなど貴女が気にする必要はありません。
とりあえず貴女は今夜は実家に帰ればいい」
ハンナはヨセフの顔を見つめる。
逆光で陰影がかかりその表情は読めないが、その瞳にはいつにない静かな怒りが宿っていた。
「私が何とかいたしましょう」
ハンナはいつになく内心で感情を昂らせているようなヨセフに驚きながらやがて微笑む。
「ヨセフさん、あなたもやんごとなき身分の方ですね? それもこの国の人ではない」
この水族館は有名な国営の施設である。
そうそう貸し切りに出来るものではない。
「閉館時間にも関わらず電話一本で国営の水族館を貸し切りにした時から何となくそう思っていました。
本名を聞いてはまずいですか?」
館内の帰路を並んで歩きながらヨセフは微笑みながら頷く。
「今度会う時には必ず私の素性を明かしましょう。約束します。今はただのしがないウェイターのヨセフとしておいてください」
水族館の出入り口が見えてきた。
数名の職員が恭しく2人を礼で出迎える。
ハンナはその答えに満足そうに笑みで応える。
「……そう、またお会いできるのね」
ヨセフは近くにあったハンナの実家の別邸に送り届けるとチラホラと降る雪を見つめ息を吐きぐるりと肩を回す。
「……さて、と」
そして街路の端から静かな足音で近寄る影に振り返った。
そのウェイトレス姿の麗人は恭しく片手を胸の前に乗せると腰を深く折る。
「ヨセフ様、彼女とのデートはもうよろしいので?」
ヨセフは顔を上げたミリーを見つめ返し微笑む。
「紳士とは無事に淑女を家に送り届けるものだよ、ミリー。もうウェイトレスモードは終わりかい?」
ヨセフの後ろについて歩きながらミリーは頷く。
「お店はもう閉まりましたので」
「そうか、ウェイトレス・ミリーのくだけた話し方も私は好きなのだが。それはそうと明日から調査をお願いしたい」
そう言って振り返ったヨセフの強い眼差しにミリーは畏まって応えた。
「はい、存じております」