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腹に肉がつく

作者: 松ハル

笠木鎮太郎の腹まわりに贅肉がつきはじめたのは、彼が三十歳をむかえたある夏の日だ。ベッドから出てシャワーを浴びるとお湯が出なかった。スイッチを入れ直してしばらく待つと今度はお湯が出た。その日の朝はすでに三十度を超えていた。水のままでもよかったなと思いつつ、笠木はシャワーを浴びた。

寝ているときの汗は牛乳瓶一本分だと、子供の頃に祖母がそう言っていたのを思い出したが、今となってはその一本分がどれくらいの量なのか笠木にはわからない。最近は牛乳瓶なんて見かけないからな、と彼は言い訳をするようにつぶやいた。


笠木は日の出前に目を覚ますのが好きだ。朝早くに起きて東の空が深くて濃い青色からゆっくりと、うすい赤色を帯びつつ軽やかで透明な青色に変わっていくまでのグラデーションを三十分ほどかけて見る。

たまに途中でコーヒーが飲みたくなって二杯淹れることもあるだが、これは彼の気まぐれな性格を表している一面だといえよう。なぜなら彼は生来コーヒーが得意ではない。

外出中にカフェに行くことがあれば、笠木は決まってホットミルクをオーダーした。ホットミルクがなければホットココアにした。胃腸が弱い笠木にとってコーヒーは飲むものではなく観るものである。あるいはインテリアと言ってもいいかもしれない。ファッションの一部かそれ以上。それでもコーヒーに手を出そうとするのは、SNSや雑誌で目にするトレンドの影響が大きい。「コーヒーを片手に」から想起される爽やかで健康的で清潔感があるがしかし知性とは無縁の薄っぺらで奥行きのない思考。少々値段のはる上着に袖を通せばいいだけの、ある限定されたエリアでしか通用しないキャッチーでフラジャイルな生活を、三十歳になる笠木は捨てきれずにいた。

だから彼の部屋にはビニールレコードが、これはなにかの記事で目にしたジャズジャイアンツのアルバムが五十枚ほど壁に立てかけられているし、バルミューダーのトースターは数回使っただけだがキッチンの片隅に仰々しく鎮座している。

レコードプレイヤーはUSBでデジタルデータとして保存できる仕様を購入したが、これもまた彼のどっちつかずの性格のせいで、笠木はなんとなく世間の風潮に乗っかって、デジタルの隙間にアナログを突っ込んでバランスを取ろうと試みている。アンプを揃えてスピーカーを選ぶなんて面倒な手続きはいっさいふまない。スピーカーはBluetoothでつながるから簡単でいい。

ちなみに彼のレコードはすべてブルーノートの復刻版だからけっこう高くついた。

しかし、だ。そもそもの話、笠木は普段はSpotifyを使っているわけで、外でも中でもSpotifyだと、わざわざレコードに針を落とそうとは思わない。だから当然の帰結として彼の五十枚はすでに邪魔だった。重くてでかい。そろそろ売ろうかなとか、笠木はある深夜にツイートしたが反応はなかった。


翌朝、彼は昨晩のツイートに反応があるかと期待したがなかった。一人か二人は反応してくれてもよさそうなのに、誰一人として反応していない。おいおい。ひどいなみんな。リプライくらいしてくれよ。こんなことははじめてだ。俺のフォロワーの800人はどこに行ったんだ? まったくのゼロだ。悲しい。だからもう一度寝よう。


レコードの売り先を考えている。

牛乳一本分の汗はかいただろうか?

バルミューダーのトースターってはたして必要だったのだろうか?


これらの逡巡を経てベッドからむくっと起き上がれば笠木はなんらかのヒントを手にできたかもしれないが、もちろん彼はベッドから出てこない。

レコードはいまだに壁に立てかけられたままで、最初に買った数枚は重みでやや曲がっている。バルミューダーのトースターは今度使ってみようかな、と目標の入り口に立ったままなにも起こらない。

そして驚くことにここ数日の就寝中に彼がかく汗は牛乳瓶で二本分かそこらはあった。つまり汗をかきやすくなったのだ。脂肪が増えて体内に蓄えうる熱量が増えたのだ。だから彼は汗をかく。睡眠時の汗を物理的に確認できないことが彼にとっての唯一の救いであった。


笠木はその日買い物に出かけて帰りに性風俗店に寄った。久しぶりだった。数ヶ月前の笠木は予定がない週末はたいてい性風俗店に行って、外食してバーでウイスキーを飲んで帰ることを習慣としていたが、最近はめっきり行かなくなった。予定をいれるようにした。友人か誰かと会っている。結婚はまだ考えていないけど、ひとりでいることに飽きた。彼女が欲しい。女性と会う機会も増えた。嬉しい。

久々の性風俗店は笠木に何も与えなかった。彼はただ射精しただけだった。笠木はもはやはじめて会った女性との擬似セックスを感じることができなかった。この変化はいったい何だ? 気持ちよくなければ虚しさもない。年齢? そうか俺はもう三十になる。いつまでもフラフラしていられない。腹も出はじめた。そうか。俺はもう若くはないんだ。三十だ。いい歳じゃないか。家庭を持とう。レコードを売ろう。トースターは、あれは売るんじゃなくて使おう。

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