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それからというもの、俺は月村さんの演奏する日には必ず店に出向いた。
月村さんは相変わらずそっけない。
俺が十喋ってもつっけんどんに一応えるだけだった。
それでも、俺は構わずに彼の姿を見つけると追っかけては、色々と話しかけ、なんとかして自分に振り向かせようと必死になった。
嶌谷さんは、俺が月村さんに付きまとうのを嫌ったが、俺は構わなかった。
「凛一、あの人はノーマルなんだから、やめとけって言っているだろう」
「別に月村さんとやりたいって思っているわけじゃないよ。そういう風に勘繰る嶌谷さんがおかしい。俺と嶌谷さんみたいな関係を月村さんに求めてもおかしくないよね。どうしてやかましく言うのさ」
「…月村さんのピアノの腕は認めるけど、何だかなあ…光が見えないっていうか…何故だか凛一を近づけさせたくないんだよ」
「…それ理由になってないし…」
「俺にもわからんが、兎に角、あんまり深入りするな」
嶌谷さんの杞憂はこの際無視だ。
俺は自分が興味をもったら、とことん突き詰めなきゃ納得できないタチなんだから。
俺に根負けしたのか、しつこさに呆れたのか、月村さんは少しずつ柔らかい表情を俺に見せるようになった。
俺が喋りかけても、嫌な顔はせず、少し呆れながらも返事をくれ、どことなく嬉そうな顔まで見せてくれるんだ。
俺は何となくわかった気がした。
この人は俺と同じように愛を欲しがっている。
それを俺が与えても構わないだろう。
今年のクリスマスには慧一が帰っていて、ささやかなパーティをしようと提案してくれた。俺は今の慧一には慣れなかった。
一緒にいると居心地が悪くて仕方が無い。
甘えたいのに鍵がかかっているみたいに、胸がつまって言葉が出ない。
ひとつは慧一がシカゴから帰ってくる度に大人になり、見慣れたはずの整った顔は益々輝いている。
それに引き換え…
俺は自分の汚れ加減を見られるのが恥ずかしかった。
慧一に窘められたのにも関わらず、今でも俺は男も女とも遊んでいる。
自分の貞操観念の弱さを呪った。
強く求められれば、愛していなくても要求に応えてしまう。
俺は愛してもらいたがったんだ。
それが間違った目的だとはわかっているけど、欲望と快感が二重になった誘惑に勝てる気がしない。
だから慧一の前ではいつも贖罪を求めている自分がいた。
慧一が悪いわけじゃない。でもどこかできっと俺に失望している。
…そう思うと真っ向から慧一の顔を見る勇気はでない。
25日の昼過ぎ、俺は自宅を出た。
行きがけに慧一の「夕食には間に合うように帰りなさい」と、言う言葉が、嬉しいのに素直に返せなくて、「気が向いたらね」と、天邪鬼な言葉を吐いた。
兄貴と差し向かえでクリスマスを迎えるなんて、想像しただけでも胸がつまる。
どうしてなのかわからない…嬉しくて仕方が無いのに怖いんだ。
早かったけど「Satyri」に行ってみた。
勿論まだ開いていない。
嶌谷さんのマンションにでもと思ったけど、ふいに思いついて、月村さんに会いに行くことにした。
自宅は知らなかったが、店の常連の戸田さんなら知っているかもしれない。
俺は戸田さんが経営する近くの喫茶店に出向いた。運が良いことに戸田さんは月村さんの自宅を知っていた。
俺は途中でケーキ屋の前でサンタの恰好をした売り子さんからクリスマスケーキを買い、その足で月村さんの自宅に向かった。
電車で三つ先の駅で降り、住所を辿って行き着いた場所は見るからに格安であろう薄汚れたアパートだった。
鉄骨の階段を上がって、紙の表札で確かめ、呼び鈴を押す。
返事がないので仕方なくドアの前に座って待つことにした。
雪は降っていなかったけど、さすがに北風が身に沁みて、何度も手に息を吹きかける。
こんなにまでして月村さんを待つ意味が自分でもわからなくて、なんだか笑いが込み上げてくる。
あの人を愛しているのか?
…トキメキも熱くなる情熱もどこを探しても見つからない。
なのに…
俺はあの人に何を求めているんだろうか…
「凛一…君」
名前を呼ばれて見上げると、驚いた顔をして俺を見つめる月村さんが居た。
「どうしてここが?」
「戸田さんに聞いたんだ。あの人の喫茶店に良く行くんでしょ?住所録にあなたのがあった」
「…そう」
「上がらせてもらってもいい?さすがに凍えて風邪引きそう…」
「あ?ああ、勿論。凛一君に風邪でも引かせたら、嶌谷さんになんて罵られるかわからない」
急いで玄関を開けて部屋に招いてくれた。
「月村さんもお小言貰ったの?」
「君の事がよっぽど大事なんだろうねえ。懐いてもほおっておいてくれと言われたよ」
中に入ると、狭いキッチンとそれに繋がる部屋が見える。あまりの狭さに驚いた。
「月村さんってプロのジャズピアニストだよね…お金無いの?」
「…部屋の事か?独り暮しにはこれくらいありゃ充分だよ。金は…確かに無いがね」
狭い部屋の中央にはコタツがあるだけ。
そのテーブルの上には、煙草の吸殻で山になった灰皿と幾つものウイスキーやらジンやらビールの缶やら…
「月村さんってニコチン中毒でアル中なの?典型的な社会的落伍者だね」
ワザとオーバーに溜息を付いてみせると、彼は「小賢しいことばかり言うガキだね。大人には大人の事情っていうもんがあるんだよ」と、軽く頭を小突かれた。
座るように促されたが、俺は畳とコタツが珍しくて凝視した。
「そんなに珍しいのかい?」
台所の蛇口で口を濯ぎながら、月村さんは俺の様子を伺っている。
「うん、俺ん家には畳もコタツもないから。ついでに言うとこんな狭い部屋もない」
「悪かったな、狭くて汚い部屋で」
「いいじゃん、すぐにエアコンが効いてさ」
「悪いがそのエアコンも壊れているんだ」
「…サイテーだ…」
狭い台所から出てくると、俺にマグカップを差し出す。
「ほら、珈琲でも飲めよ。インスタントだがね」
「…珍しい飲み物をありがとう。初めての経験って奴」
「とことんボンボンだな。育ちがいいとそんな綺麗なお顔になるのかね」
「この顔は元々だよ。父と母の愛の結晶だね」
「それは良かったな…折角のクリスマスなのにこんなところに居ていいのかい?立派なご邸宅に帰ったらどうだい」
「うん、帰るよ。その前にコレ」と、さっき買ってきたクリスマスケーキをコタツの上に置く。
「…ひとりでワンホール食えっていうのか?」
「友達や恋人とかいないの?」
「…」
「まあ俺が友達になってやるからいいか」
「ありがたいね」月村さんはヤレヤレと言った具合に応えた。
暫く話し込んでいたら夕刻になったから、帰ろうと立ち上がり玄関に向かう。
「じゃあ、俺帰るね。また店で」
「…ああ」
玄関を出ようとすると、バタッと低い音がした。
振り返ると月村さんが膝を突いて腕を押さえている。
俺は慌てて部屋に戻った。