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翌年になり、俺は相変わらず独りだったけれど、「Satyri」という自分の居場所を見つけ、店に入り浸っていた。

嶌谷さんは、「義務教育だから学校が第一だ」と言って、週3日と決めて、それ以上来るのを許さなかったから、他の日はまた道場通いか、適当に街で遊んだりして過ごした。


「Satyri」に来る大抵の客は大人の方たちで、俺みたいな小僧は居なかったからか、俺は大層可愛がられた。

たまに誘われたりしても、危ない客だったら嶌谷さんや常連さん達が止めてくれたし、ひとりになりたく無い時は嶌谷さんのマンションに泊まらせてもらう。

嶌谷さんは、今は決まった恋人は居ないらしく、いつもひとりで生活している。

「独りでさみしくないの?」と聞くと「この歳になると恋愛する労力が面倒なんだよ。俺は仕事以外はあまり関心がないんだ」

「俺のことは面倒みてくれてるじゃん」

「凛は居ても邪魔にならないし、第一恋愛対象にならないから気を使わなくて済むだろ?」

「一度くらい俺と寝たいって思わないの?」

「あのな、いくらおまえが綺麗で魅力的だとしても世の中の全員がおまえと寝たい奴ばっかだと思うなよ。俺にとっておまえはそういう意味では問題外!」

「じゃあ、俺、嶌谷さんの息子みたいなもんだね」

「それも遠慮しとく。責任がないからこうやって適当に世話できるんだよ。おまえの兄さんのようには、俺は到底できる気はしないよ」

そうは言っても嶌谷さんの俺を見る目は、慈愛に満ちていて、いつもどこかしら危ういと言いつつ俺を見守ってくれている。


慧一とは時折メールのやり取りをするぐらいだ。

3月の初めに一週間ほど帰国したが、お互い変によそよそしく、他人行儀であまり会話も出来なかった。

あれだけしていたキスもハグも、出来る雰囲気じゃなかった。

どうしてなのかわからないけど、慧一との間に壁が出来ている感じで、もう元には戻れないのかもと、寂しくてたまらない。

それを嶌谷さんに伝えると、「お互い客観視できる立場になったと思えばいいんじゃないか。悲観することじゃないよ」と慰めてくれる。

でも俺は、慧一とはそういう距離感のある関係ではいたくないんだ。

お互いの感情を隙間なく通わせたいんだよ。

俺がもっと慧一を理解しないと駄目なのかもしれない。


俺は慧一の事を思う度、刹那的な感情を胸の中に呼び起こすようになり、息苦しくなった。一種のアレルギー症候群だと自分を哂うしかない。


「Satyri」で行われる生演奏は、ここに来る客の目的であり、存分に満足させられる演奏者により、多少値段が高額であろうとも店が成り立っている。

演奏者達は毎日変わることもあるし、一定期間同じメンバーや個人で演奏することもある。

契約で半年や一年間変わらない人もたまにいたけど、毎日演奏するわけでもない。

飛び入りでセッションを奏でる人もいたりで、ざっくばらんなところもある。

俺はジャズは得意じゃなかったけど、聞いて見ると、妙にしっくり身体に馴染むから長時間聴いていても飽きなかった。

馴染みの演奏者のおじさんたちとも打ち解けあい、物怖じしない俺は色々とリクエストを頼んだり、簡単な曲を教えてもらったりと、可愛がってもらった。


夏休みも終わる頃、俺は月村孝道というジャズピアニストを店で見かけるようになった。

年の頃は嶌谷さんと変わらない風だが、身なりは無精ひげといつもよれよれの服装で、風采の上がらない人だった。

嶌谷さんに聞くと、なんでもプロのジャズピアニストでニューヨークのブルーノートで長年演奏していたらしい。

確かにピアノが上手い。

煌めくような音質と、テクニックをひらけさすわけでもないのに、圧倒的な存在感に引き付けられた。

ピアノの独奏でも充分魅惑的だったが、他の演奏者とのジャムセッションになると、その実力があからさまに発揮されて目を見張るものがある。

ジャムはその場のひらめきやアドリブの即興演奏で進行していくんだが、月村さんの奏でるコードやメロディは他の演奏者を引き立て、または自分がソロの時は鮮やかに輝きだす…と、いった具合で、常に聴衆の心を掴んでいた。


ところが、普段の月村さんは実にそっけなく、仏頂面で無口で人付き合いも悪い。

自分のするべき仕事が終わると挨拶もせずに帰ってしまうから、俺は興味深々で仕方なかったが話すら相手にしてもらえなかった。

「あの人って人嫌いなのかな?」と、嶌谷さんに聞くと、

「ああいう人こそ、気に入った人間に固執するタイプだよ。…いいから、あんまり関わるんじゃないよ。凛一」

嶌谷さんは相変わらず俺の身辺には厳しい事ばかり言う。

本当の父よりよっぽど口五月蝿い親父だぜ。


秋のうろこ雲が綺麗なオレンジ色に染まるのを眺めながら、俺は「Satyri」に向かった、

少し早いけれど、まだ開いていない「Satyri」の裏口から入り込み、店内に行くと、ピアノの音がする。

月村さんだった。

どうやらピアノの調律を手がけているらしい。

音叉を鳴らしては歯に銜えながらうなりを合わせている。

俺はそっと近寄って様子を伺う。

「邪魔にならないようにしてるから、見てていい?」

月村さんは俺を一瞥しただけで、またピアノに掛かりきりになる。

ポーン、ポーンという音が部屋の壁に反射し、耳の鼓膜を響かせる。


しばらく聞き入っていたが、ふと気づいて口を開いた。

「月村さんは調律もやるんだね。すごいや」

「せっかくのベヒシュタインだからな。いい音を奏でないとこいつの色彩が濁ってしまう」

返事を期待していたわけでもないけど、思ったことを口にしたら思いがけなく返事を貰ったから、驚いてしまった。

ベヒシュタインは世界三大ピアノメーカーのひとつで、ジャズピアノでは有名だ。

「月村さんはとっても上手いから、ピアノも喜んでいるね、きっと」

と、言うと、月村さんは初めて俺の方を向いて、眉を顰めた。

「君は…いつもそういう風にして大人をいい気にさせているんだろうね」

「え?」

「あげつらわれていい気になっているだろう。マスターに気に入られてアイドル気取りかい。いい加減、目障りなんだよ」

「…そういう気でいるわけじゃないけど、気に障ったらごめんなさい。でも、月村さんの弾くピアノの音が、俺、好きなんだ。出来るだけ目の届かないところにいるから、聴かせてもらってもいいかな?」

「…」

月村さんは不服そうに顔を叛けて、またピアノに向かった。


あからさまに嫌悪感を向けられたのは、この店では初めてのことだったから少し驚いたが、嫌じゃなかった。それより、俺の存在を目障りとでも認識していてくれたのが意外で、妙に嬉しかった。


少し離れて椅子に座り、月村さんの様子をずっと見ていた。

調律が終り、適当に音を鳴らし始める。

聞き入っていると、彼が俺に手招きする。

近寄ると「聞きたい曲はあるか?」と、聞くから即効で「ギルバート・オサリバンのAlone again」と、言うと、彼は思いも寄らない優しい顔つきで少しだけ笑い、弾き始めた。


バラードから始めた月村さんのオリジナルアレンジの「Alone again」は、梓の大好きな曲で、梓の弾くギターでふたりよく歌っていた。


たった今、もし、こんなに捻くれていなければ

きっとそう、自分を癒してあげるんだ。


必死になって、わかりたくて、みんなに聞くんだ。

困っているのを見捨てられ、君が取り乱した時って

一体どんな風になるの?


Alone again,naturally


またひとりになってしまった

当たり前のように…


梓を思い出し、また自分と重なってしまう唄に泣いてしまいそうになり、思わず口唇を噛んだ。

すると月村さんのピアノのコードとリズムが変わり、同じ曲がとんでもなくファンキーな曲調に変わっていく。

俺の涙は止まり、なんだか楽しくてたまらなくなる。

口ずさみながら、月村さんの傍に立った。

月村さんも一緒に口ずさんでくれている。


演奏が終わると俺は「ありがとう」と、言い、月村さんの頬にお礼のキスをした。

月村さんは、真から嫌そうに顔をしかめながら俺を睨んだ。




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