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店のシックな看板には「Satyri」と描かれてある。
店内は暗く静かだった。広めの屋内には、カウンターやテーブル、奥に低いステージ。
グランドピアノとドラムセット、でかいスピーカーがそのステージの大部分を占めていた。
珍しそうに眺めていると後ろから、さっきの男が帰ってきて声をかける。
「珍しいか?ここはジャズバーだからな。レコード鑑賞もありだが、基本生演奏を聴かせるんだよ」
「へぇ〜凄いね。聴いてみたい」
「ガキに聴かせるにはもったいない。おまえ中坊だろ?そういう鼻たれのガキはお断りだ」
「客を選り好みしてちゃあ一流と言えねぇぜ、おっさん」
「言うね〜こまっしゃくれたガキは嫌いだが、その綺麗なお顔に免じて許してやるよ。腹減ってないか?」
「…減ってる」
「じゃあ、残りもので良かったら食うかい?」
「頂きますよ。ガキだから遠慮なくね」
「本当にかわいくないんだなあ」と呆れながらも、貶めてはいない風で俺をカウンターに促す。
客扱いが上手い。こういう人が本当の大人なんだろうな。
「昨日の残りで悪いけど、味は保証するよ」
と、カウンターにビーフシチューと鳥のから揚げ、パンとシーザーズサラダが並べられた。
「これも残り物」と、サンタが乗ったケーキまで出てきて、思わず笑ってしまった。
「フルコースだねえ」
「昨夜はパーティだったからな。俺は片付けがあるから相伴できないけど、ゆっくりどうぞ。お坊ちゃん」
昨晩も大して食べていなかった俺の腹の音が急に鳴り出し、俺は取り敢えず全力で満腹にすることにした。
その後、眠くなった俺は近くのソファに寝転び、「ここで寝るな!」という、店内を掃除していた男の文句も聞かずに眠り込んでしまった。
起きた時は昼近くになっていて、知らぬ間に俺の身体に掛けられた毛布をキチンを畳んで、辺りを見回す。
あの男は見当たらなかったので、メモ紙に簡単なお礼と五千札を置くと、その店を出て自宅に戻った。
当たり前だが、家には誰もいない。
慧一も…帰ってこない。
クリスマスには必ず一緒に居てくれたのに。
パソコンを覗いても新しいメールは届いては居ない。
2日前に来たメールを見る。
クリスマスには帰れない理由と謝罪。それとクリスマスカードの添付。
何度見てもそれは変わらない。
こんなにも…慧一を欲しがっている俺の気持ちなんか、どうせ何一つ考えてもいやしないんだろう。
せつなさとむなしさでどうしようもなかった。
目の奥から込み上げる涙を飲み込んだ。
いつの間にか俺は声もなく泣く方法を覚えたみたいだ。
嗚咽を繰り返すと頭痛が鳴り止まないんだが、自分の泣き声を自分で聞くのが嫌だった。
惨めさに拍車がかかるだろう。
誰も愛してくれないなら、せめて俺だけでも自分を愛してやろう。
そう思わないと生きてはいけなかった。
夕方、俺は家を出た。
クリスマスにこの家でひとりで過ごすのは酷過ぎる。
玄関を出た俺は、日の落ちる方へ向かって歩き出した。
色とりどりのイルミネーションで輝く街並みに相応しく、雪が舞い落ちてくる。
恋人たちには天からの絶好の贈り物だろうけど、俺には少し悲しいかな。
笑って祝福してやれる器量ができりゃいいんだけど。
優しい言葉も抱きしめる腕のぬくもりも俺には関係ないさなんてさ、どっかのペシミストみたいに厭世的になれりゃいいんだが、寂しがり屋な俺にはムリでしょ。
周りがこれだけ浮かれているのだから。
そうは言っても、誰かを誘う気にもならなくて、俺は今朝の店へ向かった。
新橋の駅から少し入ったところの二つ目の路地を入ると、暗闇に溶けるような感覚のたたずまいを見せる店が現れてくる。
近づいてよく見ると、目立たない細かい装飾や照明なんかにやたら金をかけていることがわかる。
いかにも敷居が高い。誰でもどうぞいらっしゃいって感じじゃない。
なんだかそれが気になって昨日はここに逃げ込んできたんだが…まあ、昨晩の喧嘩も元はといえば、俺が先にけしかけたからなんだ。
慧一のことで苛立っていたから、誰とも構わず殴りたい気分だったんだよ。
「Satyri」の重いドアを開けて中に入った。
外からは全く聞こえなかったジャズの生演奏がいきなり身体中を覆った。
フュージョンっぽいんだけどな。こういう音も気持ちいい。音楽といえばクラシックを主に聴いていたから、こういうノスタルジーなジャズが珍しくも気持ちいい。
暗い店内を目を凝らして見渡し、今朝の男を捜す。
カウンターの中に居るのを見つけて近づき、目の前の空いた席に座る。
ちらりと見ただけで俺を無視した男に愛想良く「今朝はお世話になりました」と、言うと、その男は「ガキが来るところじゃないんだぜ、ここは」と、舌打ちをしながらもおしぼりを渡す。
隣の男が俺をじっと見つめて口を開いた。
「なに?この子。めちゃめちゃ綺麗じゃない。マスター、こんな子に手ぇ出してたの?」
「…」
俺は驚いてその人を見つめてしまった。
どう見たってゲイの方だ。
そういえばと思い、辺りをじっくりと見渡せば、一見してそれだとわかる方々がいらしゃるので俺は小声で、マスターと呼ばれた男に「ここってゲイクラブなの?」と、聞いた。
マスターが答える先に隣の綺麗なゲイなお方が教えてくれた。
「ゲイ専門じゃないけど、マスターがゲイなんで自然にそういうお客が集まるのよね〜」
「へぇ〜マスターってゲイだったの?普通の人だと思った」
「…普通の人じゃなくて悪かったな。まあ、おまえみたいなガキには手を出さないから安心しろ」
「それは残念だ。マスター、俺の好みだったのに」
「ませたガキは気に入らない。それにおまえにマスターと呼ばれたくないね」
「じゃあなんて呼べばいいのさ」
「嶌谷さん」
「え?」
「嶌谷誠一郎っていうのよ」隣のお兄さんが答えてくれた。
「じゃあ、嶌谷さん。俺、宿禰凛一って言うんだ。よろしくね」差し出した手を嶌谷さんは暫く見つめていたが、しょうがないなあという顔をして握り返してくれた。