4
慧一の大学の前期試験が終わる時期はわかっていたから、用心はしていたつもりだった。
が、予定より早く終わったのか、その日、明け方近くに自宅に帰ると、リビングに灯りが点いていた。
慧一がソファに座ったままじっとしている。
俺を見ると立ち上がって近づいて来た。
「凛一。今頃までどこで何していたんだ。何か事故にあったんじゃないかって心配するだろう」
「…ごめん」
「答えになってないよ」
「ちょっと、友達の家で、遊んでいただけだよ」
「…」
慧一は黙ったままじっと俺の頭からつま先までを一通り見て、それから俺の両腕を掴んだ。
逃げようとしたがビクともしない。
上背が180以上の慧一とは15センチ近く違う俺は抵抗出来様も無かった。
元々この人が本気で力を出すとひとたまりもないのはわかっている。
「この、跡はなんだ?」
「!」
しまった!と思った。
さっきまで付き合ってた男の仕業だ。
いい男で優しそうだったからホイホイついて行ったのが拙かった。
まさかあんなS気質とは知らないで、手首を縛られたんだ。鞭とか道具とかは使わなかったからいいようものを、かなり痛い目に合わされた。
おかげで自分にマゾっ気はないと確信したからいい勉強になったぐらいに思うことにしたのに…
まさか兄貴にバレるなんて…これは、かなり拙いだろう。
「…だから、友達と…ちょっとじゃれてて…」
「嘘つくんじゃないよ、凛」と、言いつつ、慧一は俺のTシャツの丸首を刷かせた。
一目見てわかる。行為の跡がしっかりと残っている。
俺は口を噤んだまま、下を向いた。
「どういうことだ。凛。なんで何も言わないんだ。遊ぶのはいい。でも何してるんだよ。俺に言えないことか?どうなんだ」
こうなったら言うしかない。どっちにしろ、いつかはバレるとわかってはいた。
「…男と寝てたんだよ。なにか悪い?」
「凛…」
「…別に…兄貴だってやってることじゃん。今日だけじゃない。男も女ともやったよ。自分がどういう人間なのかを知るには経験するのが一番手っ取り早いだろ?そう思わ…っ!」言い終わらないうちに慧一の拳が飛んできた。
本気の一発だった。
物凄い音と共に俺は酷く床に叩きつけられた。
頭が一瞬白くなる。顎ががくがくとなった。
今まで…生きてきた中で、一度だって俺に手を挙げたことがない慧一が、初めて手を挙げた。
しかも本気で殴りやがった。
痛さと驚きで俺はしばらく倒れたまま起き上がれなかった。
どうやら俺は慧一を本気で怒らせたらしい。
顔を見なくても怒気が迫るのが良くわかった。
「どうして…そんな簡単に…」慧一の声は震えていた。
俺は黙ったまま、そっと慧一の顔を見上げた。
見たこともない…恐ろしくも悲痛な顔で慧一は俺を見ていた。
「俺と梓がおまえをどんなに大事に育てたか…知ってるはずだろう。それなのに…おまえは、そんな誰とでも寝るような奴になったのか、凛一」
慧一の怒りの言葉が俺の心の奥の開けてはならない扉を開けた気がした。
「それが…兄貴の本心かよ」
「何?」
「大事に可愛がって育てた身体を、他人とほいほいセックスさせて…それで汚れたから怒っているわけでしょ?兄貴は。だったら…そんなに気に入らないなら、あんたが、捕まえて離さなきゃいいんじゃないか!…俺をひとりにして、ほっといて…俺ひとりでどうやって生きろって言うんだよっ!誰か他の奴を求めたっていいだろ!…捨てたくせに…偉そうに言うなよっ!」
「凛一…」
「大体…梓が死んだのも兄貴がこの家から出て行ったからだ。慧が出て行かなかったら、梓だって…」
言うべきことじゃないとわかっていても止まらなかった。どうせ俺は捨てられたんだ。慧一に今更どう思われようが構わない。
「…」
俺の勝手な詰る言葉に慧一は一言も反論しない。してくれりゃ俺だって…まだ…
「…違う…俺だ。俺が居なかったら慧も梓も自由でいられた。俺の世話なんかしないで、もっと自由に楽しむことができたはずだ。俺はあんたたちにとって邪魔な存在なだけだった」
「違う、凛」
「そんなことわかってんだって。ずっと前から、俺なんか居なきゃ良かったって…」
「そんな事一度も思ってないっ!」
「失望した?慧。誰とでも寝る俺にこんな風に育てた覚えはないって言ったよね。責任は誰が取るのさ。俺をこんな風にしたのは誰だよっ!」
「凛、おまえひとりを責めているんじゃない!だけど…おまえがこんな風になるのは…見ていられない」
それが本音なのか?…手を離したくせに、俺への理想だけは持っていて、それが壊されたから、慧は目を瞑るっていうのか…
「じゃあ見るなよ。わかったよ。もういい…慧一を自由にしてやるかから…今後一切、兄貴には俺の面倒は見てもらわない。俺の心配はしなくていい。俺はひとりで大人になるから、もう俺に関わらないでくれっ!」
そう言うと、俺は慧一の前から逃げ出した。
初めからなにもしてくれないでいれば良かったんじゃないか…俺なんかどっかの誰かに面倒みさせりゃ良かったんだ。そしたら慧も苦しまなくて…
俺は自室に鍵を掛け、閉じこもったまま泣き続けた。
慧一の俺を呼ぶ声が何度か聴こえたが、俺は絶対にドアを開けなかった。
一週間後、慧一はアメリカに留学した。
俺への手紙が置いてあった。
内容は身体の事。食事の事。学校の事。生活の事。ありきたりな心配ばかりだ。
俺はそれをめちゃくちゃに破り捨てた。
慧一との二度目の決別は長く、俺に還るには、それから二年もかかった。